隠詩 (3/4)
『ゆきさん、無理を承知でお願いします。
‥‥‥僕を、好きになって下さい』
「うぎゃぁぁあっ!!もーうっ!!」
衾を頭から引っ被って叫び声を隠した。
そうしないと邸いっぱいに響きそうで。
‥‥‥あの時の声が、離れてくれない。
あの時
いきなりの意味不明な言葉に固まったゆきに、
彰紋は困った様に笑って
額に、掠めるだけのキスを落として室を出て行った。
それ以来、ゆきは彼を避けて避けて避けまくっている。
どう反応していいのか、何を話せばいいのか分からなくて。
姿を見れば心臓が壊れそうになって
多分、これって何かの病気だ。
だって、京を歩いていてもすぐに見つけてしまう。
随分遠いほんの小さな人影でも、彰紋なら分かってしまって‥‥‥
またダッシュで逃げて、の繰り返し。
後になって罪悪感に苛まれるくせに。
そんな事も十日以上続けばもっと、自分からは話しかけにくくなっていた。
「ん〜っ!いい天気っ!!」
ここ数日の雨が上がれば、穏やかな陽気が京を包んだ。
じめじめしたのは何も天気だけでない。
うーん、と座ったまま足と手を伸ばす。
景時の邸のそれとはまた違った造りの塗れ縁。
背を凭れるのに絶好な高欄があって、ゆきのお気に入りポイントだったりする。
「天気がいいってやっぱり素敵。空も綺麗だなあ」
まだ伸びをしながら呟けば後ろでクスクスと笑う声がする。
この金気はもしや?と振り向けば案の定、庭園からこちらに近付く男がいた。
「‥‥‥あ、翡翠さん。こんにちは」
‥‥‥ちょっと苦手なだけに、挨拶も仄かに固くなる。
翡翠はと言えば気にしていないのか、ゆったりとした足取り。
海賊の彼が藤原邸に来る事もあまりないだけに、珍しいなと思う。
「今日はどうしたんですか?」
「ああ、幸鷹殿に呼び付けられたのだよ。検非違使別当殿の機嫌を損ねては、いつ牢に繋がれるか知れないからね」
「‥‥‥はぁ」
その検非違使別当殿の邸はここじゃないのに。
なんて思う眼差しに気付いたのか、翡翠は笑いながら手を伸ばして来た。
「‥‥‥それは建て前でね。雨上がりに色付く美しい花を愛でにやって来たんだよ、ゆき殿」
「翡翠さんっ!?」
ゆきが戸惑いがちに声を発する。
男の指が自分の髪を掬い、あろう事か唇を触れて来たから。
「‥‥‥天は、雲に閉ざされた男の願いを聞き届けたようだね。こうして逢瀬を重ねられるのだから‥‥‥可愛い人」
「‥‥‥‥‥‥‥わっ、ちょっと!!」
庭園に立ち、高欄に凭れるゆきの腰を背後から抱き寄せて。
翡翠の吐息が耳に掛かる程に、二人の顔が寄せられた。
「まだ、避けているのかい?」
「へ?さけ?」
「神子殿が心配していてね。私も男として、麗しい姫君の悩みを放っておけないのだよ」
翡翠の謎の発言。その意味を問うつもりだった。
でも、声に出す前に‥‥‥床がしなる。
足音、そして、声。
「‥‥‥‥‥‥ゆきさん」
「彰紋くん?」
‥‥‥最悪。
最も気まずい人物に見られるなんて。
彰紋は廊の先で立ち尽くしている。
無条件に胸が締め付けられるのは、彼の眼が、棄てられた子犬のようだからかもしれない。
「‥‥‥些か子供じみたやり口だとは思うがね」
「翡翠さん、何の話?」
彰紋に聞こえない様に耳を打つ低音にドキリとする。
端から見れば睦まじい二人の姿。
「‥‥‥またの逢瀬を楽しみにするとしよう。次は月を背に語らいたいものだね、ゆき殿」
あっさり手を離して、颯爽と邸内に消えて行く後ろ姿をぽかんと見送った。
(花梨ちゃんに頼まれた‥‥‥?)
それは一体何の事だろうか?
誰の眼にも彰紋を露骨に避けていると、バレている事は自覚している。
それに対して、花梨が翡翠に何かを頼んだと、そう言う事か?
仲直りでもさせるつもりで‥‥‥?
(ううん‥‥‥それにしてはおかしいよね。だって、余計に誤解される事してた)
ゆきの脳裏には、さっきの悪戯を楽しんでいる翡翠色の眼が浮かぶ。
何が何だかさっぱり分からなくなって、だから。
影が陽差しを遮るまで気付かなかった。
彼が近くに来た事に‥‥。
「ゆきさん」
名前を呼んでゆきの前に座り、真っ直ぐに視線を合わせる。
久々に会う気がするのは、実際に気のせいじゃない。
「‥‥‥‥‥‥」
向かい合っても言葉が出ない。
気まずいのはゆきだけじゃないという事。
その空気に耐えられなくて口を開けば、思ってもみなかった台詞が出て来た。
「あ、彰紋くんといい翡翠さんといい、この世界の人は口が上手いよねっ」
「え‥‥‥口、ですか‥‥‥?」
「ひ、翡翠さんはまあ、大人だから慣れてる気がするけどね。でも意外だったな」
「意外‥‥‥」
剣呑な光を宿した二つの宝玉。
危険だ、と思えば自己防衛本能所以なのか、更に早口になりながらも
‥‥‥‥‥‥‥さらさらと、紡ぐ言の葉。
「彰紋くんも女の子を口説くの上手いんだよね。真面目そうに見えてたからびっくりしちゃった」
あの時の彰紋の本音なんて知らない。
『好きになって下さい』と言われたものの、それだけ。
彼は何でそう言ったのか‥‥‥‥‥‥多分、からかわれている。
ドキドキさせられて、そんな自分と彰紋が怖くなった。
「‥‥‥そう、貴女に思われていたんですね」
「だってそうでしょ?あんな言葉を、出会って間がない人に言うんだもん」
「‥‥‥‥‥‥」
「本気に取れないよ」
‥‥‥嘘なのに。
「そうですか‥‥‥僕は、貴女を傷付けていたんですね」
暫くじっとゆきの眼を見ていた彰紋が少しだけ悲しそうに笑った。
「申し訳ありません、ゆきさん」
謝罪を最後に立ち上がると、彰紋の姿がは廊を曲がって消えていく。
間違えたんだ。
そう思ったけど力が出なくて、ゆきは座り込んだまま。
‥‥‥本当は言って欲しかった言葉がある。
今頃気付くなんて、バカだ。
prev next
BACK