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「平家のっ‥‥‥!!」
絢子の名乗りを耳にした九郎が、ぎり、と歯を軋ませ今にも怒鳴ろうとしていた。
「九郎、君の話は後にして下さい。今は一刻を争いますから」
「‥っ!‥‥‥分かった」
いつもよりも聞き分けがいい九郎に、弁慶は唇で笑みを刻んだ。
これ程簡単に大人しくなるのは、その分まだ衝撃が抜け切れてないのだろう。
敬愛し、ただひたすらに兄の望む未来を創るべく生きて居た九郎には、この現実は惨過ぎる。
それでも、気が触れたりせずに堪えているのは‥‥‥生まれ持っての性質故か。
何にしろ有り難い。
今、取り乱されては厄介だから。
「‥‥‥それで‥‥絢子殿、と仰いましたね。どうして松戸が源氏に落ちていると?」
物腰穏やかに問う。
‥‥‥警戒されぬ様に。
絢子の艶のある黒髪が揺れて、光を孕んで海面の様にさざめいた。
美しい黒髪に濃い紫の眼が、弁慶を映す。
ただ静かに。
「‥‥‥先に名乗るのが常ではなくて?」
「ああ、そうでしたね。僕も気が急いていたようで‥‥‥すみません」
「ふふっ。では後程に皆様のご紹介をお願い致しますね」
「ええ。話が早くて助かります」
先に名乗らない弁慶にやんわり釘を刺しながら、謝罪の一言であっさりと覆す。
物分かりの良さを示す、柔らかい微笑みすら浮かべて。
弁慶は密かに感心した。
その彼の様子にひとつ頷くと、絢子は将臣の隣に立ったまま少し離れた位置に立つ弁慶に語り掛けた。
「松戸に向かわれるのは無謀な策。既に源氏の息が掛かっております」
「‥‥‥‥‥‥そう、貴女が言い切る根拠は何処に?」
船上は咳払いひとつ聞こえない。
二人に視線が集中していた。
「姫君。悪いけどさ、源氏が松戸に接触したって話はオレも聞いてないけどね」
沈黙を打破った声の主は赤髪の少年。
たん、と軽快に音を立てながら船縁から飛び降りる。
軽い身のこなしはそのまま、絢子の前まで歩き、その手に口接けた。
「初めまして、麗しいお姫様。ここで出会えたのも、運命のお導きってやつかもね」
「ヒノエ、その辺にして下さい」
「チッ‥‥‥仕方ないね。それで?姫君の話を聞かせてよ」
絢子は唐突なヒノエの口接けにも全く動じた様子はなく、小さく頷いた。
そして、彼女の唇から零れる名は。
弁慶ですら驚愕を覚えた。
「源氏の軍奉行、梶原景時が以前、松戸入りをなさっていたそうですわ」
再びの静寂。
陽気な姿につい忘れがちになるが、景時は優秀な軍奉行だった。
恐らく彼は頼朝の命を受け、松戸に交渉しに行ったのだろう。
平家に縁ある松戸に、協力すれば多大な見返りを約束しながら。
一方で平家にこのまま組みすれば、一門の滅びと共に松戸を攻撃すると。
有り得ない話ではない。
それどころか、間違いないとさえ思える。
春に動いたということは、頼朝はそれほどに以前から機会を穿っていたということになる。
そこまで簡単に想像がつき、同時にふと疑問を持った。
「絢子殿、君は何故知っているんですか?将臣くんでさえ知らない事を」
平家を総括する還内府でさえ知らぬ事を、平家の奥で守られていた姫が知ると言う事実。
「あら、平家にも隠された情報網がございましたもの」
晴れた笑みを浮かべ絢子は弁慶を見、そしてヒノエに視線を移した。
弁慶が滞りなく皆を紹介していく。
「‥‥‥そして、こちらが白龍の神子の望美さんです」
「春日望美です。よろしくお願いします‥‥‥えっと、絢子姫」
「絢子、と。どうかお気楽になさって、望美さん」
「はい!」
幾分戸惑いながら、望美は絢子に手を差し延べた。
白く細い手が、望美と握手を交す。
‥‥‥正真正銘、初対面だった。
今まで幾度となく繰り返した『運命』に
絢子と言う存在はなかった。
これは一体どう言った事だろう。
これから何が起きるのか。
望美にはもう分からない。
ただ彼女の笑顔が、消えそうな程に儚くて‥‥‥。
それが、望美が絢子に出会った時の印象だった。
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