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第五章:心に刻まれた泣き顔

 
 



「九郎。気が乱れている。集中しなさい」

「‥‥‥‥‥‥」

「どうしたんですか、九郎さん?」

「うっ!!」



眼前に広がる紫苑の髪と、覗き込む翡翠色の眼。
九郎は後ろに飛び退いた。


「な、なな何だ望美っ!?」

「何だって‥‥‥九郎さんの方ですよ。最近上の空ばっかり。どうしたんですか?」


と聞いてきた望美に、うっと言葉に詰まれば。


「‥‥‥九郎。剣に迷いが生じている。今日は切り上げなさい」

「‥‥‥はい、先生」


数日前に鞍馬山で久し振りに会い、同行するようになったリズヴァーンが冷静に諭した。

幾分沈みながら邸の中に入る背中を、望美は眼を細めて見つめていた。





ゆきが熱を出した日から、ずっと様子がおかしい九郎を。














「九郎、おはようございます。今日は随分と早いんですね。もう朝稽古が終わったんですか?」

「ああ‥‥‥ゆきの具合はどうなんだ?」



まさか、集中出来ずに切り上げられた、とは言えずに曖昧に誤魔化す。

そして気を逸らす様にゆきの具合を尋ねた。



そんな九郎の内心などお見通しの弁慶は、沈鬱な表情を浮かべて見せる。


「具合‥‥‥ですか」

「‥‥‥弁慶!?」



眼を伏せた薬師の顔を見て、九郎は顔色を変えた。

まさか、と。足元が崩れそうになる。




「もう、僕には‥‥‥‥‥‥」




診る必要がありませんよ、と言おうとして眼を開けた時には‥‥‥九郎の姿はそこにない。


やれやれ、と肩を竦めながら弁慶は朝食を摂りに向かった。













‥‥‥ゆきが熱を出して、もう一週間になる。

三日間は皆心配でゆきの側を離れられず、じっとしていた。

だが、リズヴァーンに会う事を急がねばならなかった彼らは、四日目に朔に彼女を任せて鞍馬山に赴いた。


彼はあっさり同行を受け入れて、
「神子である望美の願いのままに」
八葉として在ると言って退けた。


そんな迷いない師を九郎は眩しく思う。



(俺は、どうも調子が出ないな)
















あの夜のゆきの涙。


『兄上、一緒に寝よう?』

甘えるように、淋しそうに‥‥‥

激しく葛藤するも結局頷いたのは、愛しさよりも罪悪感だったからだろうか。








(‥‥‥‥‥‥っ!!)


思い出すだけで、九郎の頬が赤くなった。


『あれ?熱にでも浮かされていたのかなあ』


と、次の朝に起きた時にゆきは笑っていた。
まだ熱は下がっていないのに。

結局、涙の理由は聞けぬまま、何もなかったように過ごしている。

















「ゆきっ!!‥‥‥‥?」


部屋まで早足で歩き、彼女が病人である事などついぞ忘れて、襖を思い切り開けた。

だが部屋の主の姿は見えず、代わりに隅にきっちり畳まれた寝具ががらんとした印象を与える。




(まさか‥‥‥)



最悪な事態を想定してしまい、慌てて否定した。





まさか、そんな訳がない。





もし、ゆきに何かあったなら、

自分が知らされていないはずは、ない。

きっと病み上がりの身体で、ふらふらと庭に出ているのだろう。
そうだ。ゆきの事だから、一週間の寝たきり生活に飽き飽きして‥‥‥











そう思うのに、足が竦んでいる。





(ゆき)






「だあ―――れだっ!?」

「どわぁっ!?」





突如視界が遮られ、同時に背中にぶつかる柔らかいものに、九郎は前につんのめった。





「‥‥‥‥‥‥」

「元宮ゆき、復活したぜっ!!」


背後から背伸びして、両手で目隠しをするのは、
弾けるような笑い声と共に、元気に復活を宣言するゆきだった。



‥‥‥後ろから付いてきた譲が、「誰だと聞きながら自分で名乗ってどうするんだ」とツッコミを入れているが。

だが、九郎は黙ったまま固まっていた。



「弁慶さんがもう動いていいって言ったからね、庭の手入れを手伝ってたんだよ!久々のシャバの空気はいいねえ」

「‥‥‥元宮のあれは手伝うと言うより邪魔するに近かったけど。あと、シャバの使い道が違うだろ」

「あはは、細かい事気にしちゃダメだよ有川眼鏡くん!」

「眼鏡って‥‥‥九郎さん?どうかしましたか?」



全く動かない九郎に気付いた譲が訝しげに問う。
そこでやっと、ゆきも九郎の様子に気付いた。




「‥‥‥兄上?どうかし‥‥ぎゃあっ!」



どうかしたの?と聞こうとしたゆきは、突然手を振りほどかれたかと思うと、思い切り抱き締められた。



「あにっ‥‥‥!?」



ぎゅうぎゅうと、息も付けない程の力に窒息しそうになる。



「ぐっぐるじっ」

「‥‥‥この、馬鹿!!」


怒声と共に、九郎の腕は離れた。

強い抱擁から解放されたゆきは、肺に空気が一気に流れ込み、ぜいぜいと荒く息をする。

そして、ムッとして九郎を睨んだ。



「馬鹿ってなんでっ!?てゆうか苦しかったんだけど兄上!!」

「病み上がりにふらふらしてどうする!?部屋で大人しくしてろ!!」

「やだよ!せっかく庭なら出てもいいって弁慶さんに言われたのにっ‥‥‥!!」

「駄目だ!!」










‥‥‥この間の朝といい今といい、見せつけられた譲は複雑な顔で二人を見ていた。




(結局、この二人は何なんだ?)




本当の兄妹ではない。

それは、ゆきと共に現代にいた譲はよく分かっている。




だが、譲と望美より一年半前の京に流れてきたと言うゆきは、再会した時にはもう、この世界に馴染んでいた。


‥‥‥既に、元から京に居たように。




そして、血の繋がりのない九郎を兄と慕っている。


何より、譲が京邸に来て一番驚いたのは、九郎がゆきを見つめる時の眼だった。


宇治川で初めて会った時からずっと、源氏の総大将として自分にも周りにも厳しく、融通の利かない人間だと思っていた。




だが。
ゆきといる時の眼はとても和らいでいて、譲はそれに驚いた。






‥‥‥今だって。







「だから小姑かって皆に言われるんだよ兄上!?」

「小姑と呼ぶのはお前だけだ!!」



それはそれは楽しそうに言い合っている。



(仲良いよな、この二人)



そう言えば、と譲はふと思った。


学校にいた頃の彼女は、こんなにまで誰かを受け入れた事があったのだろうか?

自分の知る彼女は何処かでいつも一線を引いていた。


もし、両親を亡くしたゆきが、初めて受け入れた存在が『九郎兄上』なのだとしたら。

















それは愛情や恋情を飛び越えて

彼女の中の、『唯一無二』












(まぁ、九郎さんはいい加減な人じゃないから、それだけの覚悟はあるんだろうけど)





この二人の微笑ましい『関係』が、ずっと続けばいい。
そうすれば、ゆきは笑っていられるから。


他人の事ばかり心配している譲の気持ちを、もしゆきが知ったなら。


「有川くんらしいね」


と優しく眼を細めるであろう事は、知らないでいた。





 

  
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