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「こ、これは‥‥‥!!」
寒さに震えながら文机前に座ったゆきが、素頓狂な声を上げたのは‥‥‥
夜半に差し掛かろうとした頃。
慌てて立ち上がると、厨に向かいバタバタと走り出した。
手にした「それ」が床に落ちるのも構わずに。
St. Valentine's Day:恋文
はらはらと雪が降る。
冷たくぬくもりを持たないそれが、やけに暖かく感じるのは‥‥‥その白き羽のような舞姿に、愛しき存在を重ねているから。
九郎は濡れ縁を歩く足を止め、眼を細めながら外を眺めた。
「‥‥‥あいつみたいな雪だな」
なんて呟き、慌てて周りを見回す。
静寂に包まれた京邸。彼の独白を耳にする者は誰も居ない。
そのことにひどくほっとして、九郎は再び足を進めた。
彼が向かう先は京邸の奥まった位置にある、一人の少女が眠る室。
朝稽古が早く終わったこんな雪の日。
ごくたまに時間の余ったこんな日は、彼女の寝顔を見たいと思う。
そして、寝起きのぼんやりとして自分を捉えて‥‥‥
『あれ?あにうえ‥‥‥?』
なんて、彼女の眼が嬉しそうに和む瞬間を「もう一度」見たい。
(‥‥‥馬鹿!今日はそんなつもりじゃない!!)
肌を重ね共に眠ったのは、くりすますと言う夜。
翌日の寝起きの彼女は、忘れられない程の愛しさをもって、九郎の胸に残ったまま。
まだ、たったの一度きり。
特別な夜は、あの日だけだった。
燻る熱を抑えることにはもう慣れつつある。
だけどせめて、寝顔くらいは。
そう願うのは、いけない事だろうか。
「ゆき、入るぞ」
幾ら恋人と言えども、まだ夫婦にはなっていないから、一応声を掛ける。
だが、返事はない。
恐らく眠っているのだろう。
苦笑しながらもそっと室内に足を踏み入れた九郎は、珍しいものを発見した。
「ゆき?」
墨に丁寧に畳まれた寝具と。
一通の、
「‥‥‥‥これは一体どう言う事だ!?」
‥‥‥恋文だった。
どたどた‥‥‥と足音が響く。
こんな風に走ってくるのは、望美か白龍かゆきだろう。
既に日常と化した事実に譲はもう慣れていた。
顔を上げることも無く、かまどの火を調節する。
だが、今日の足音がいつもより重い事に気付いた時には、持ち主が姿を見せた。
「‥っ!!譲!!」
「‥‥‥九郎さん?おはようございます」
いつに無く血相を変えている源氏の大将に、それでも生真面目な譲は挨拶を忘れない。
「ゆきは?ゆきを見なかったか?」
「‥‥‥元宮ですか?」
九郎の眼の前で、譲は不思議そうな顔をする。
嫌な予感がした。
‥‥‥得てしてそんな予感は当たるもの。
「あれ?一緒じゃなかったんですか?」
「‥‥‥いや」
九郎は厨の入り口に立ち尽くす。
‥‥‥‥‥‥まさか。
信じたくないのに、ゆきの性格を考えると‥‥‥答えは導き出される。
恐らくもう、邸にはとっくにいないはず。
「おかしいですね。昨日、お菓子を作るから手伝えと言っていたのに‥‥‥」
「は?菓子とゆきの居場所に何があるんだ?」
意味が分からなくて眉を顰める九郎に、譲は「ああそうか」と納得したように頷いた。
「俺も元宮も昨日気付いたんですけどね。今日はバレンタインデーなんですよ」
「‥‥‥ばれ?」
譲から「バレンタインデー」について教わった九郎は、今度は邸を飛び出した。
握り締めた紙は九郎の力で、ぐしゃっと音を立てて形を変えている。
「おはようございます、ゆき殿」
「‥‥‥‥‥お、おはようございますっ!!」
何故ここにゆきがいるのか。
九郎の部下である青年は首を傾げた。
「九郎様はまだお越しになっておられませんが」
「あ、いえ、あの‥‥‥」
気まずそうに俯くゆきの唇から、思いも寄らぬ言葉が零れた。
「‥‥‥お渡ししたいものがあって‥‥‥継信さんに」
「わ、私にですか!?」
想いを寄せていた少女が、大将の九郎にではなく、自分に用があると言う。
「‥‥‥あのっ、これをっ」
袂から取り出して、継信に差し出して来たのは、小さな包み。
こんな朝から‥‥‥と言っても昼に近いのだが、ゆきは何処に行ったのか。
(‥‥‥まさかな)
と否定しつつも、足取りは迷う事なくある場所に向かっている。
手には、握り締めたままの文がひとつ。
『貴女を想うこの心をお許し下さい』
一言だけの、簡潔な恋文。
ゆきの筆蹟ではなく、明らかに男の伸び伸びとした字体の持ち主を、九郎はよく知っていた。
そして九郎は、その人物がゆきにどんな感情を抱いていたのかも。
「‥‥‥‥っ!!」
六条の邸。
いつもなら、門前で待つ彼女の目的は自分なのに。
俯いて、恥じらいながら自分の配下に伸ばしたゆきの手は、小さな包みを持っていた。
『バレンタインデーとは、俺達が居た世界の風習のひとつです。
女性が好意を持つ男に、甘い物を贈るんですよ。
元宮も昨日思い出したらしく、随分慌てていました』
ゆきはてっきり九郎に会ってると、思っていたのだろう。
意外そうな顔で、譲は作業の手を止め呟いていた。
ゆきはその風習とやらを思い出し、慌てていたという。
そして継信の手には、たった今までゆきが持っていた包み。
「‥‥‥どういう事なんだ、ゆき」
砂利が大きな音を立てた。九郎が近付いた事に二人とも気付かなかったのか。
‥‥‥ゆきは飛び上がるように、振り返った。
栗色の髪が、ばさっと音を立てそうな程の勢いで。
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