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番外編:君がいるから
「‥‥‥ゆき?」
「‥‥‥あっ」
「馬鹿。そんなに嫌なのか?」
「ち、違うよ。嫌じゃないんだけど‥‥」
「‥‥‥嫌いか?」
ふ、と眼を細める九郎を真正面から捉えて、ゆきは激しく首を振った。
「そんなことない!!でもっ‥‥‥」
「辛いのはほんの一瞬だ。すぐに慣れる。それに、俺はもう限界なんだ」
「兄上、でも私っ‥‥‥」
「ゆき」
目の前には大好きな人の眼。
真剣にこちらを見ていると、折れそうになる。
じっと眼を合わせていると、九郎が小さく微笑んだ。
‥‥‥こんな顔をされては、もう降参。
「‥‥‥いいよ、受け入れる」
「よく言った」
九郎は今度こそ満面の笑みを浮かべる。
そして先程からの問答の原因を、ゆきの口に運んだ。
「‥‥‥うっ」
「辛いか?なら、水を飲め」
「ううん、平気‥‥‥‥‥‥兄上、これで私も大人になれたかな」
「ああ、一歩近付いたはずだ」
辛くて涙ぐむゆきの小さな手を、九郎の大きな手がしっかりと包み込んだ。
「兄上」
「ゆき‥‥‥」
「元宮、早く食べろよ。片付けられなくて困ってるんだ」
見詰め合う二人に割り込んだ絶対零度の声音に気付き顔を上げると、やり切れないといった表情の譲が立っていた。
「わさび漬け位で大げさだろ、元宮?」
「だ、だって苦手なんだもん」
「九郎さんも、わざわざ食べさせてやらなくても‥‥‥」
「い、いやそれはだな」
『困りきったゆきを見るのが楽しいから』
とも言えずに九郎は沈黙を決め込もうと決意した。
「とにかく、人前ではイチャつかないで下さい!」
「おお俺は、いいいちゃついてなど‥‥‥!!ただ箸をずっと持ち上げているのは疲れただけで!!」
「元宮はさっさと食べる!!」
「有川くんのケチ」
いつもとは逆の「はい、あ〜ん」はこうして幕を閉じる。
譲はゆきの返事が聞こえていないのか、くるっと踵を返した。
「全く、見せ付けるのも大概にしてくれよな」
京に来て最初に「二人」に会った時もそうだったが、何せ仲が良かった。
元々は譲と同級生だったゆきと、歴史に名を残す九郎との間には、勿論血の繋がりなどない。
だがゆきと再会した時にはもう「兄上」と慕っていた。
そして自分たちの前では厳しい九郎が、ゆきを「妹」と可愛がるのを目の当たりにし、驚いたことはそう遠い昔ではない。
やがて、紆余曲折を経て恋人に昇格した二人。
彼らを見ていると良かったと思う反面、どこか複雑なものが残っていたりする。
「‥‥‥いいんだけどな、もう」
周りに誰も居ないと分かっているからこそ、譲は呟いた。
陽だまりの下、濡れ縁の淵に二人並んで腰掛ける。
お互い何もする事のない時間が重なるなんて、非常に珍しい。
こんな日は、こうしてのんびり二人で居たいとゆきは思う。
「‥‥‥そういえば兄上、覚えてる?」
「ん?」
「私が初めて兄上に、あ〜んってした日のこと」
「‥‥‥」
笑い出しそうな声音のゆきにちらっと眼を向けると、表情も声と同じ。
今にも噴き出しそうな、そういったものを孕んでいた。
自分をからかおうとしているのか。
取り合えず口を閉ざす。
そんな九郎がゆきの眼には、憮然としているように見えたのか。
嬉しそうに話を続け出した。
「あれって去年の事だったんだよね」
「‥‥‥‥」
「兄上ってば器用に椎茸ばかり除けて、いつも最後に眼を瞑って食べてるの」
「‥‥‥‥」
「それでね、弁慶さんがそれを見ていつも、呆れた顔をしていてね」
「‥‥‥‥」
「密かに私、椎茸の日は兄上を見るのが楽しみだったんだよ。いっつも兄上を見てたもん」
「‥‥‥‥お前な」
九郎は、はぁ、と深い溜め息を吐いた。
傍らにはきょとん、と首を傾げるゆき。
「なに?」
「いや‥‥‥」
こいつは本当に無自覚なのか?
自分がなにを言っているのか、本当に分かっていないのだろう。
「兄上?‥‥‥怒ってるの?」
言葉と同時に頬に触れるゆきの手に、九郎は僅かに眼を見張らせた。
柔らかくて暖かい感触。
至近距離には少し不安に揺れる栗色の眼差しが、じっと自分を見据えていた。
黙り込んでいる九郎に気付き、怒らせたと思っているようだ。
「余計な事言ったかなあ‥‥‥ごめんね、兄上」
「‥‥‥馬鹿か、お前は」
「う、うわっ」
さっきよりも更に深い溜め息が聞こえた。
そう思ったときにはもう、ゆきの身体は強い力で引き寄せられていた。
ぐっと、咄嗟に眼を瞑った彼女が次に眼を開けたとき。
さっきはなかった温もりに包まれていることに気付く。
「あ、あのっ!?兄上?」
「お前が俺を煽るからだ」
「ああ煽るってなんで!?」
ゆきを自分の膝の上に横抱きにして、九郎は濡れ縁の柱に凭れ座った。
固まる彼女の頭を、自分の胸に押し付ける様に抱き締める。
(‥‥‥先が思い遣られるな)
『いっつも兄上を見てたもん』
それはまるで、ずっと自分を好きだった、と告げているのと同じではないのか。
それがどれほど男を焚きつけるのか、ゆきは恐らく分かってないのだろう。
無自覚で言っているのだから、本当に質が悪い。
「兄上の心臓の音、速いね」
(誰の所為なのか分かっていないのか?)
九郎の胸。甘えるように頬を摺り寄せながら呟く、心を通わせたばかりの恋人。
今まで「兄と妹」として散々触れ合ってきたから、彼女にとっては当たり前かもしれないが。
「‥‥‥ゆき」
「‥‥‥え?‥‥‥‥‥あ」
名を呼ばれ、顔を上げたゆき。
眼で合図すれば、顔を赤らめて‥‥‥そっと眼を閉じた。
「ゆき、好きだ」
「‥‥‥ん」
ゆきはまだ、深い口接けには慣れていないから。
ゆっくり、と時間をかけて唇を重ねていく。
壊れないように、壊さないように。
互いの息が、混ざり合うほど熱くなるまで、時間をかけて。
(俺は、我慢出来るのだろうか)
真にゆきを「妻」と出来るのは、いつの事か。
それまでは珠玉のように大事に守りたいと思う。
一方で、壊してしまう程愛したいと希うのは、男として当然の事。
「お前は呑気でいいな、ゆき」
腕の中に閉じ込めた、柔らかい頬に唇を落とす。
いつもよりずっと長い口接けに、すっかり夢見心地になって‥‥‥あろう事か眠ってしまった最愛の少女。
「相手はこいつだ、気長に待つしかないか」
この時の九郎の言葉は。
「‥‥‥あら弁慶殿、具合でも悪いのかしら?」
「‥‥‥‥いえ、何でも‥‥‥」
九郎達の背後の室内で、蹲り静かに爆笑している人物に、
偶 然 に
聞かれていたらしい。
青い空は、もうすぐ梅雨へと変わるだろう。
心が通じたばかりの二人を優しく濡らす、季節がやってくる。
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