(1/3)
 


『兄上、大丈夫?』



今にも泣きそうに、心配そうに俺の顔を覗き込む。

‥‥‥ああ、お前が傍にいれば。




そう答えたかったのに、熱く重い体は謝罪の言葉を述べていた。
すまない、と。



『何謝っているの?兄妹でしょ?』

『‥‥‥‥‥‥ああ。そうだな』



何故、お前はそんなに辛そうに兄妹、と言うんだ。
そして俺は何故、何故こんなにも‥‥‥









『じゃ、また後で来るね』


立ち上がろうとする気配。


‥‥‥そうじゃない。
夢中で手を伸ばした。














『何処にも行くな、ゆき』










お前さえいれば、俺は。









腕に閉じ込めたゆきが、震えてる。
泣くな、と言いたいのに眠りに囚われ、体が重い。

だからせめて。安心させるように力を込めた。












泣くな、ゆき。

俺が傍にいる。

お前が幸せになるまで。



お前に泣かれると胸がひどく痛むんだ。








浅く深い夢の底で、陽だまりのようなゆきの、

苦しいほど涙の滲む声がした。



『さよなら、兄上』



唇に触れたものの正体に気づいたと同時に、
柔らかなぬくもりが消えたのを感じた。

















再び昏倒していく意識の中で、強く思う。









今更、失えるわけなど

ないのに



‥‥‥ゆき









終章:永遠の絆






覚ました眼にすぐに飛び込んだのは、黒い外套だった。



「‥‥‥弁慶か」

「眼が覚めたと思ったら随分な挨拶ですね、九郎」



ならばあれは夢だったのか、と九郎は安心した。
そうだ。
ゆきが自分の前から消えるなどあり得ないのだから。
第一、理由がない。

はぁ、と安堵の息を漏らして九郎は再び頭上に座る軍師に眼を遣る。
苛立ちを眼に宿して、明らかに自分を見ていた。
心の機微に疎い九郎ですら、気付くほどの怒り。



「‥‥‥何かあったのか?」

「おや、君もたまには鋭いんですね。九郎のくせに」



何故だろうか、目の前の男はすこぶる機嫌がよろしくないようだ。
そしてそれをいつものように隠そうともしない。



「‥‥‥弁慶。今のお前、変だぞ」

「変なのは君でしょう。怪我は落ち着いたようですが、今度は頭がおかしいようですね」



間髪入れずに返ってきた答えに、九郎は絶句した。

何なんだ、この男は。
眉を顰める九郎を無視して、用が済んだとばかりに弁慶が立ち上がる。



「では部屋に帰りますから」

「‥‥‥待て、弁慶」




余りにも素っ気無い様子が気になって呼び止める。
そして、自分の吐いた言葉に引っかかった。



‥‥‥待て、と強く思ったのはいつだ?


















『さよなら、兄上』

















「ゆきは‥‥‥ゆきは何処にいる?」



焦りを滲ませた声音。
振り返った弁慶はやっと、九郎の眼を見た。



「‥‥昨日、鎌倉に向けて出発しました」



嫌な汗が背筋を伝う。



「出発とは何の事だ?」

「ですから、鎌倉に」

「だから何のために!答えろ!」



嫌な予感。
目の前の、今は鋭さを増している弁慶の眼を睨みつける。
瞬時、全てのものが止まった様な錯覚を覚えた。





「継信に嫁ぐ為にですよ」






「継信っ!?何を‥‥‥」



頭が空白になる。
勢いよく起き上がればまだ本調子ではないのか、頭がくらっとした。




「何処に行くんですか」

「決まっている!!あいつを連れ戻しに」

「行ってどうするの?」




九郎の声を遮る様に室外から問い掛けられた。
振り向けば、部屋の入り口で静かな眼をした景時の妹がいた。



「朔殿」

「行ってどうすると言うの、九郎殿」

「それは‥‥‥理不尽な婚姻をあいつに強いる訳にはいかないだろう」



それは当たり前の事なのに。
ゆきの望まない結婚を、この二人は黙って見逃したと言う事実に、九郎は憤りを感じた。

そしてそれを自分にも黙っていたことにも激しい怒りを覚える。






「‥‥‥ゆきさんは、自らの意思で嫁ぐんですよ」





「‥‥‥‥‥‥‥‥‥なにを、いって」




‥‥‥何をあり得ないことを言っているんだ、この男は。
気の抜けた一瞬を突くように朔が続ける。




「兄上も弁慶殿も、いくら頼朝様からのお話と言えど強いることはなかったわ。ゆきが自分で決めたのよ」

「だから連れ戻す必要などないんですよ、九郎」

「継信殿はずっとゆきを見ていたんですって。優しい方だし、ゆきは幸せになれるわ」



幸せ?ゆきが?継信と?



「そうですね。彼なら信頼の置ける男ですから。ゆきさんを大事にするでしょう」



朔と弁慶が交互に話している。
聞こえている。なのに。





‥‥‥違う、と

認めない、そう心は叫んでいた。













『‥‥‥兄上』

花が開くような、満面の笑顔。

『でも、そんな兄上だから、大好き』

抱き締めた華奢な身体は柔らかく、いつだって暖かい。










そのゆきが、誰かの‥‥‥継信の腕に抱かれるというのか。




















考えるだけで込み上げる激情。


やっと、気づいた。







「‥‥‥馬を用意してくれ、弁慶」



朔を見て、弁慶に眼を移すと九郎は静かに言った。
弁慶は同意せずにその理由を問う。


「‥‥‥‥‥‥何故ですか?」



問い掛ける弁慶にひた、と眼を合わせて九郎は笑った。
吹っ切った、青空のような笑み。






「一生かけて守りたいと思った、惚れた女を取り返しに行く。それだけだ」







二人の目をしっかり見据える。
強い意志を感じたのだろう。

やがて弁慶は微笑んだ。
背後に脅迫のようなものを感じさせて。



「ゆきさんを連れて帰って来なければ、馬鹿大将と呼びますからね」

「そうよ。散々ゆきを泣かせたのだから当然です」

「‥‥‥泣いた?あいつが?」



目を見張らせる九郎に、二人とも呆れた様に深い溜め息を吐いた。



「本人に聞いてください。馬はとっくに外に繋いでいますよ」

「わ、わかった。恩に着る」


一言を残し、九郎は走り出した。







再び長い息を吐いた弁慶は、振り返ることなく言葉を紡ぐ。



「止めるかと思っていましたが」

「もう振られているから止める権利なんてありません」



朔が驚いて後ろを見ると、物陰に隠れるように佇む望美に気付いた。














好き、と言って抱きついた時に、ゆきに見られてしまって。
慌てて走っていく彼女に手を伸ばそうとした九郎を見た時に、気付いてしまった。
九郎自身が気付かない本心に。

『あの時咄嗟に許婚者と名乗ったが、普段は気にすることはないぞ?』

やがて、望美の肩を掴んで随分と失礼なことを吐いた。

『俺の気持ちはお前と同様、あれはその場凌ぎだと思っている。無理をして合わせる事もない。折を見て解消しよう』

これではどうしようもないではないか、と望美は泣きたくなった。















「‥‥‥ゆきちゃんが誤解しているのは知ってたんだけど、どうしても言えなくて。やっと帰ってきたから謝ろうと思っていたら、嫁ぐって‥‥‥」


じわり、と涙が滲む。
望美の肩を朔が抱き締めた。

その様子をじっと見て、弁慶は首を振る。



「後は二人の問題ですから。望美さんは何も心配することはありませんよ」



むしろこれで良かったのだから。
こうでなければあの鈍い二人のことだ‥‥‥下手したら一生気付かないのかも知れないだろう。

弁慶はくすりと笑うと、二人を促し九郎の私室を出た。







 


  
戻る
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -