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ぽつぽつと降り出した雨が、気付けばざあざあと激しい音を立てていた。
一層激しくなった雨が頬を打つ。
そのちょっとした痛みに我に返れば、いつの間にか空は薄闇から夜の闇に変わっていた。
「‥‥‥あはは。どれだけショック受けてるんだろ、私」
雨に混じったゆきの呟きは、雨だけでない湿りを帯びていた。
ぽろぽろと零れた涙。
一体いつからここで泣いていて、枯れて、再び泣き初めたのだろうか。
もうそれすらも分からなくなっていた。
『‥‥‥ゆきさんには申し上げにくいんですが。九郎には源氏の大将としての勤めがあるんです』
心底申し訳なさそうに弁慶が告げたのは、事実。
そしてそれは、常にゆきの中の一部を占めていた事だった。
『今の源氏はまだ不安定要素が多すぎる。それは分かりますね?』
黙って頷きながら、この先の言葉が自分を打ちのめす事を予感していた。
そんな彼女の眼差しに気付いたのだろう。
弁慶は指先を伸ばして優しく頬を包んできた。
『‥‥‥九郎に有力な武将か貴族の娘を娶らせて、源氏の底力を上げなければならないんですよ』
『そう‥‥‥‥です、よね』
『そんな動きが頻繁になったのも、最近の事ですけどね』
もっと気の利いたことを言えばよかったのに。
心配そうな弁慶に、安心させる様にすればよかったのに。
『‥‥あ!私、有川くんにこれを運ぶように頼まれてたんですよね!!ちゃんとしとかなきゃ帰ってきたら怒られちゃう』
慌てて足元の白菜をかき集めて、張り付いた笑みで弁慶の元を辞すのが精一杯だった。
そのまま厨に駆け込んで用を済ませて、邸を飛び出した。
そしてただ足が向くままたどり着いたのは、ここ‥‥‥九郎と二人、まだ恋心を抱く前に雪遊びをした、あの場所。
(雨に濡れるとまた叱られるよね)
なんて思いながら。
そこから動けないまま膝を抱えていた。
‥‥‥どこかで分かっていたのに。
この恋が身分違いだと。
源氏の大将と言えば、言わばサラブレッド。
望美のように白龍の神子と言う肩書きもなく、ただ景時に引き取られたことになっている自分。
晴れて互いの心は通じたけれど。
だからと言って周囲‥‥‥自分たちを知らない人達が、認めてくれると思うほどに子供じゃなかった。
また溢れた涙は嗚咽に代わって、抱えた膝の間に頭を埋めた。
「‥‥‥私と兄上じゃ釣り合いが取れないのかな」
「馬鹿なことを言うな」
「‥‥‥え?」
唐突に頭上に降った声。
びっくりして顔を上げれば、真っ暗な闇にも灯りをともす、橙色が飛び込んだ。
愛しい愛しい九郎の、うねる髪が。
「随分探したんだぞ」
「ご、ごめんなさい」
こちらを見下ろす眼は心底からほっとした、と言う光を宿していた。
咄嗟に謝ったゆきに幾分眼差しを和らげる。
どさっと音がした、と思った時には、九郎は彼女の隣に座っていた。
「あ、兄上!ダメだよ、風邪ひくから!!」
「風邪をひくと言うなら間違いなくお前だろう?俺より弱いくせに、こんな場所に長時間いたからな」
慌てるゆきに素早く口接けて、その冷えた唇に眉を顰めた。
大きく漏れた溜め息が怒っていると感じて、ゆきは身を竦めてしまう。
「‥‥‥こんなに冷やしてしまったのは、俺の責任だな。すまない」
「ち、違うよ!!私がただちょっと考え事してただけでっ!!」
「‥無理するな。弁慶から全て聞いた」
「‥‥‥‥っ!!」
ゆきがなぜ邸を飛び出して、こんなに雨に打たれて泣いていたのか。
それを知っていると言われ、悔しそうに唇を噛み締めた。
「本当に馬鹿だな、お前は。俺が何も考えてないと思っていたのか?」
「‥‥兄上」
また溜め息。
そして、優しい抱擁。
それらを同時に受けて、ゆきの眼からまた涙が溢れた。
「‥‥‥やっぱりゆきは泣き虫だな」
「ふぇっ‥‥だってっ‥‥‥」
もう、どっちがより濡れているか判別が付かない。
お互いの身体は雨に染まっていた。
そして九郎の胸は、抱えられたゆきの眼からの暖かい雫がしみを作っていく。
「‥‥だって、兄上は」
「ゆき」
「‥‥ふ、ぅんっ‥‥‥‥」
その先を言わせないために唇を塞ぎ、長い時間を掛けて舌を絡めとっていった。
泣いているゆきの心に
少しでも伝わるように。
彼女を前にするだけで、燻って止まないこの熱が、彼女に届くように。
「‥‥‥兄上」
「馬鹿、俺を信じろ」
またもや、馬鹿、と繰り返しながらもその眼は優しく頬に添えられた手は暖かかった。
「俺の手はお前で一杯だ。抱いても抱いてもまだ足りないと思うのに」
「‥‥‥」
「お前さえ俺の側にいてくれるなら、他に眼を向ける余裕すらないんだ‥‥‥お前しか見えないからな」
「私もそうだよ、でもっ‥うぅん!」
またもや唇を塞ぎ、続く言葉を防いで。
大人しくなったのを見計らって九郎は唇を離す。
二人を繋ぐ銀糸が、暗闇の中で妙に艶を感じた。
「だから、信じろと言っただろう?例え兄上の意思に反しても、お前だけが俺の‥‥‥‥」
「‥‥‥‥俺の?」
ニヤッと笑うと九郎はゆきの耳に唇を寄せた。
そっと息を吹きかけながら囁くのは、紛う事なき甘い睦言。
「ただ一人のお、女だ」
「兄上、今いい所なのに‥‥‥」
「‥‥‥ば、馬鹿!それを言うな!」
どもった九郎に間髪入れず突っ込む。
途端に赤面する表情が愛しくて、ゆきは再びその胸に頬を摺り寄せた。
「うん‥‥‥うん、信じる」
「あ、ああ」
もう一度口接けを交わせば、二人とも何だか照れて笑った。
ずぶ濡れの九郎とゆきがこの後京邸で着替えを済ませた後、弁慶に謝罪を受ける。
それから心配していた朔や景時、そして望美と譲にこっぴどく叱られた。
翌朝、案の定風邪をひいたゆき。
辛いはずの熱も、けれど一日中腕枕をしてくれる恋人がいれば‥‥‥幸せなひと時。
「‥‥お前には分からないだろうな。俺が何を心配しているのか‥‥お前がいつ盗られてしまうか、気が気ではないんだがな」
静かな寝息を立てるゆきは気付かない。
‥‥‥それでいい。
常に自分が嫉妬心で一杯だとは、彼女には言えないから。
彼女に好意の眼差しを向ける、男共に対して。
君のとなりで眠らせて
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