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譲が望美や朔達と味噌や醤油などの買出しに出かける直前に、ゆきに声を掛けた。
頼まれ事に嫌な顔一つせずに、寧ろ嬉々として頷いた彼女。
庭でひそかに栽培していた白菜を引っこ抜けば、青々とした独特の匂いが鼻を擽った。
「よし、これだけあれば大丈夫かな?」
両腕に抱えるほどの白菜は、一食分の食材にしては多すぎる。
それでも意気揚々と庭から廊に上がった。
「しっろっな!味噌和え味噌和え〜」
なんとも妙な節までつけてしまうほど、ゆきは白菜の味噌和えが‥‥譲お手製の料理が大好きだった。
身分違いの恋
「あれ?弁慶さん、どうかしたんですか?」
「ああ、ゆきさん。少し困ったことがあるんですよ」
渡殿の途中で立ち、溜め息を吐く弁慶の背中を見咎めて、声を掛けた。
振り返った彼。
声を掛ける前にもう、背後に立つのがこの邸の居候の少女だと気付いていたのだろう。
苦笑交じりに『困っている』原因について述べた。
「実は、九郎に鎌倉から書状が来ていたのですが、何故か僕宛の荷の中に混ざってしまって‥‥どう届けたものかと」
「書状ですか?」
問い掛けながらゆきは、違和感に首を傾げた。
頼朝と言えば、源氏の棟梁。
総大将を務める九郎が最も敬愛し、そして心酔する兄であり主なのだ。
そんな棟梁からの書状なら、ことさら丁寧に運ばれてくるはず。
弁慶の荷に紛れて運ばれてくるなど‥‥あってはならないのだから。
「いいえ、まさか鎌倉殿からではありませんよ」
「あ、やっぱりそうですよね‥‥‥って、あれ?まだ何も言ってないのに」
「ふふっ、君の顔に書いてありますよ」
「ええっ!?」
慌ててぺたぺたと自分の頬に触れるも、そこにあるのは滑らかな肌だけ。
そんな彼女の仕草を見て眼の前の男は声を噛み殺して笑っていた。
「‥‥‥もう、すぐにからかうんだから」
「すみません、君があまりにも可愛らしいから、つい」
「はあ、もういいけど‥‥‥って、そうそう。良ければ私が兄上の所へ届けましょうか?大切な書類でしょ?」
無邪気に首を傾げるゆきに、弁慶はどこか困ったように笑った。
「いえ‥‥‥」
弁慶らしくもなく、歯切れが悪い。
更に言うならそんな表情にお目にかかれるのは、非常に物珍しい気がする。
「弁慶さん?」
不審そうな表情で首を傾げるゆきに対して深い溜め息を吐き、弁慶は心に決めた。
九郎は怒るでしょうね、と内心でまた溜め息。
けれど、仕方ない。
いつか彼女も知らなければならないことだから。
「ゆきさん、実は‥‥」
諦めて口を開く、弁慶の眼が痛々しく感じたのはきっと‥‥‥。
この後に続く台詞を聞いたせいだろう。
「鎌倉から送られてきたのは、九郎に花嫁を薦める為の釣書です」
バサバサと音を立てて、ゆきの手から瑞々しい葉が滑り落ちた。
九郎がいつもの如く政務をこなし、六条からここ京邸に戻ったのは夕方に差し掛かる頃‥‥になる。
ただ昼間から降り続く雨。
それが陽光を覆い隠しているから、正確な刻は計り辛かった。
門をくぐり軒下で雨除けの外套を脱げば、物音を聞きつけたのか。
足音が近づき眼を遣れば、よく見知った男が珍しく早足でこちらを目指している。
「ん?弁慶か。外は凄い雨だな」
「九郎‥‥?一人ですか?」
「あ、ああ‥‥一人だが」
何を唐突に。
そう思ったが取り合えず、簡潔な問いに簡潔な答えを返した。
途端に弁慶の表情が変わる。
「‥‥ゆきさんは見えませんでしたか?」
「‥‥‥っな!!い、幾らなんでもあいつを連れ込んだりする訳がない!」
以前、ゆきが六条を訪れた時に
『大好きなのは分かりますが、兵達に示しがつかない行為だけはここではやめて下さいね』
と、からかいたっぷり嫌味たっぷりに九郎に告げたのは、弁慶。
そのときの事を思い出したのだろう。
今の九郎の表情は真っ赤だった。
「そうではありません。彼女に会いませんでしたか、と聞いているんです」
「ゆきに?‥‥‥いや、見ていないが」
「そうですか‥‥まずいですね」
苦虫を潰した顔、とはよく言ったもので、今の弁慶が正しくそうだろう。
彼のこんな顔はなかなかお眼に掛かれる物じゃない。
数刻前に彼の最愛の少女が思ったのと、偶然にも一致した感想を抱いた。
‥‥‥いや、待てよ。
すぐに気付いた。彼の呟きが引っかかる。
今こいつはなんと言ったんだ?
「まずいとは何だ?弁慶、ゆきがどうしたんだ?」
「それは 「あいつは何処だ?」」
眼に力を込めて弁慶に向き合った。
嘘は許さない、そう思いながら。
「実はゆきさんの姿が昼間から見えないんです」
「なっ‥‥‥!!なぜすぐに俺に言わなかった!?」
九郎の最も大切な少女が、見えない。
その一言で体中の血が、一気に昇った。
手が勝手に伸び、弁慶の外套を掴み上げれば眼前にゆきとよく似た栗色の眼。
「なぜ探さない、弁慶!!」
「仕方ないでしょう?僕は今、この邸の留守を預かっているんです。勝手に空けるわけには行かないんですから」
「‥‥お、前は‥っもういい!!」
ゆきの不在に気付いても何ら手を打たなかったこの男に対する怒りより、今は彼女を探すことが先決。
そう思い外套を掴む手を、力を込めて振り払った。
踵を返して再び外に飛び出そうとした九郎は、瞬時に伸びた手によって阻まれる。
苛立たし気に振り返れば、こちらを冷静に見据える一対の眼が、九郎を更に激情に駆り立たせようとした。
「っ!弁慶!!」
「聞いてください九郎。僕が彼女を探さなかったのはもう一つ理由があるからなんです」
「理由」を聞いて今度こそ、振り向きもせずに九郎は飛び出した。
勝手なことをゆきに吹き込んだ弁慶に、一瞬湧き上がったのは憎悪にも似た怒り。
けれど殴りつけることはしなかった。
‥‥‥出来るはずもない。
真実なのだから。
「‥‥だが、馬鹿だ、ゆき」
一番大切なことは、弁慶の口から伝えられていない。
そして、自分も。
上衣を掛けていても、雨が冷たく染みてきた。
彼女の行きそうな場所を考えては、散々走り回った足がまた加速して。
それの繰り返しだった。
‥‥‥早くゆきを見つけなければ、風邪をひいてしまうのに。
彼女の姿を弁慶が最後に見た昼間には、雨など降っていなかったという。
だとすれば。今頃は雨除けもなく、冷たい思いをしているに違いない。
「まったく、何処にいるんだ‥‥‥ゆき!!」
今頃ゆきは、どこかで泣いている。
冷たい雨に打たれて。
きっと、あいつのことだから、一人で泣いているんだ。
そう考えると居た堪れなかった。
「‥‥‥もしかすると」
一箇所だけ、見逃していた場所を思い出し、また雨の中走った。
こんなに探し回るなら、最初から馬に乗って来ればよかった、と自分の猪突猛進ぶりをどこかで嘲笑いながら。
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