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日も暮れかけたころ、体が重くて眼が覚めた。
「‥‥‥‥‥あ、痛た‥‥‥」
全身が重くて、あちこちに走る鈍い痛みで自覚する。
私ってば兄上の部屋で、座ったままで寝てたんだ。
兄上はまだ眠ってる。
そして、誰も帰ってないみたいでとても静か。
そろそろ起こそうかな、って肩を揺さぶろうとした私の手は、空中で止まった。
背中が暖かい事に気づいたから‥‥‥
‥‥‥腰に回った兄上の腕
離れて欲しくないと思った
なんだ、そっか。
私、兄上が好きなんだ。
気付いた瞬間、泣きたくなった。
この腕は、きっと偶然。
でも私の感情は確信出来る。
泣きたい位に愛おしいと思うこの感情は。
そう。兄上の望む『兄妹』でいる為には邪魔でしかない
‥‥‥恋という名前の、切ない想い。
「兄上。眼を覚ますまでに、外してあげるね」
あなたが悩まずに済むように、この腕を解いてあげる。
だからあと少しだけ、このままでいさせて‥‥‥
今だけでいいから。
第七章:越えられない壁
神泉苑は今日の雨乞いを一目見ようと集まった人たちで、ごった返していた。
ゆきは朝から望美達と皆でやってきたのだが‥‥‥
人ごみに揉まれている内にすっかりはぐれてしまったらしい。
「うわあ‥‥‥どうやったら皆と合流できるんだろ」
なるべく前で白拍子達の華麗な舞を見たい、と人が押し寄せてくる。
一旦人ごみから抜け出そうと決心したゆきは、流れに逆らって歩き始めたものの人の多さにうんざりした。
そもそも何故、神泉苑に来たのか。
確か今朝まではそんな予定ではなかった。
少なくとも昨日は聞いていない。
昨日。
あれから熟睡している九郎の腕をそっと外して、手近に転がっていた枕を手繰り寄せ、ゆきの膝の代わりに頭の下に押し込んだ。
そして音を立てない様に部屋から出た。
あのままでは、九郎と顔を合わせられないから。
気付いてしまったゆきの真実の願い。
それは九郎の願いと重なる事は、ないと知っている。
夕食時になってようやく起きてきた九郎は、ゆきの膝で眠った事など記憶にないようだった。
幾ばくか寂しさを感じつつもほっとしたのも事実。
そう、明日は一日、雨乞いの儀で忙しい彼と会わずに済む。
少しは気持ちが整理出来ると思っていたのに。
「ゆきちゃん、雨乞いしに‥‥‥じゃなかった。舞を見に行こうよ!!」
「‥‥‥えっ?わ、私はいいよ。望美ちゃんたちで行ってきなよ」
おはよう、と望美に掛けようとした言葉は宙に消え、代わりに口から滑りでた今日の第一声は断りのそれ。
だがあっさりと、弁慶によって覆された。
「ゆきさんが来ないと九郎が泣きますよ」
「まさか」
とはいえ、そう言われれば逆らえない気がする。
無言の軍師の微笑が怖いから、というのが断れない第一の理由だったりは、したけれど。
歩きながらゆきは、人のざわめきに混じって、さわさわと桜の花が擦れる音が聞こえた気がした。
この花が散れば、新緑が芽吹く。
もっとも、現在のゆきの心境は花を愛でるには程遠いが。
(皆とははぐれるし、先にいるはずの兄上には会えないみたいだし‥‥‥ほんと、どうしよう)
もうすぐ舞が始まるのかな、と焦ってばかりいる。
人の喧騒が一段と強まって、疲れてきた。
ふと前を見遣ると、神泉苑の隅なのだろう。
殆ど人のいない空間があった。
取りあえず、そこまで行こうと歩く。
「ゆき!こっちだ!」
ゆきを呼ぶ声が聞こえたのは、その時。
どんなに周りが煩くても、聞き間違える訳がない。
誰よりも今聞きたかった声に、眼が潤んだ。
(あ‥‥‥兄上!!)
九郎の姿を探そうとして、走りながらきょろきょろ辺りを見回す。
思い切り余所見をしていて、ドン、と何かにぶつかったと気付いた時には、ゆきの体は傾いでいた。
転んじゃう、とぎゅっと眼を瞑る。
けれども予想した衝撃とは逆の‥‥‥腕をぐい、と引っ張られる感覚に恐る恐る眼を開けた。
「‥‥‥大丈夫?怪我はなかったかしら?‥‥‥かわいいお嬢さん?」
腕を引っ張ってくれた見知らぬ女性が、優しく微笑みかけていた。
「すみません!大丈夫です!」
(美人なお姉さんだ‥‥‥)
見惚れているゆきに向かい、彼女は口を開く。
「‥‥お嬢さんにはこの桜がどう見える?」
問い掛けた彼女自身が少しだけ困惑している様に見えた。
一瞬戸惑うも、答えは簡単に出て来る。
「‥‥桜、綺麗ですよ?」
「‥‥‥そう。確かに綺麗よね。‥‥‥変な事を聞いててごめんなさいね?
‥‥‥大切な人が待っているんでしょう?速くお行きなさい。
‥‥‥桜に魅せられる前にね」
ふっと薫る様な笑みがあまりにも。
背後に薄紅を添える桜と同じ色の髪も眼も、
「綺麗‥‥‥」
景色に溶け入りそうに儚く綺麗だった。
ゆきの小さな呟き。
その女性は、一瞬眼を見張らせて‥‥‥唇できゅっと、微笑を刻む。
(‥‥‥わ、私ってばおバカ〜!!)
思わず滑り出た失言に、ゆきは慌てた。
「ご、ごめんなさい!じゃあ‥‥‥」
慌てて踵を返しながらゆきは思う。
(とても綺麗で‥‥‥なんて哀しそうに笑う人なんだろう)
―――いつか再び会いたいと思った。
桜色の眼に満ちるのは、哀しみと暖かいもの。
そして、彼女を取り巻く優しい風の様な気を、ゆきは感じたから。
すっかり元気が出たゆきは、遠目に一瞬だけ見えた橙色に向かって走り出す。
「あに‥‥‥うえっ!!」
「馬鹿!弁慶達が探していたぞ!!」
嬉しさの余り思わず飛び付いたものの、どうしていいか戸惑った。
ぎゅっと抱き締める九郎の強い腕を、背中に感じる。
抱擁が強ければ強いだけ、ゆきの頬は赤くなった。
「ごめんなさいっ!!」
「‥‥‥次は気をつけろ。わかったな」
「うん」
九郎には、もっと色々と叱責の言葉があった。
なのに、見上げたゆきの眼は泣いた後のように赤いから。
溜め息混じりに出た一言で済ませてしまう自分。
ゆきに対して随分甘い男だと、認めずにはいられなかった。
「もう皆座っている筈だ。行くぞ」
「うん」
手を繋ぐのはいつだって当たり前。
湧き上がるこの想いだけが、その距離を微妙なものに変えてしまいそうで
ゆきは怖かった。
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