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去年の夏の終わり。
将臣が熊野を訪れたのは、ヒノエへの警告の為だったらしい。
平家一門が官位を解かれた時、平家の‥‥‥清盛様に取り巻いていた貴族も数名、同様に無官とされた。
そのうちの一派が、
「再び平家の世を打ち立てて欲しい」
と将臣に決起を依頼しに来たのだとか。
『気をつけろ。あいつら追い詰められてたからな。何をするかわからねぇ‥‥‥熊野に来るかもしれない』
と、将臣はヒノエに言っていたという。
もともと、権力者にすり寄りその甘汁を啜る事しか出来ない彼達。
朝廷に残れていたなら、新たなる庇護者を求めていただろうけれど。
追放、となれば何も残っていない。
追い詰められた彼達が、再び朝廷に還るために考えたのが、平家の復興。
そんな途方もない事、叶うもないのに縋らずにおれぬ程、彼らも必死だったのか。
今や勢いを誇る源氏を叩き、平家の世を再び、と願っていた。
その為には、源氏に対抗し得る勢力を味方にすればいい。
‥‥‥つまり、豊かな財力と、朝廷が介入し難い独自の権力を持つ後ろ盾が。
考えられるのは、熊野か平泉。
平泉の詳しい情勢は私には分からないけれど、将臣は「狙うなら熊野」だとすぐに分かったと言う。
「だってよ、『熊野別当は平家出身の姫を溺愛している』、って話は京でも有名だからな。警戒は厳しくても風花を誘拐すりゃ、別当も言いなりになると思ったんじゃないか」
「‥‥‥私が、裏道を登らなければ良かったのかしら」
「違うだろ、風花。悪いのはあいつらだ。お前はアンラッキーだっただけだろ」
「まさかこんな風に利用されるなんて‥‥‥許せないよね、風花」
傷は思うよりも浅く、けれど寝たきりを余儀なくされた望美の枕元。
事件を聞き駆け付けてきた将臣を望美が睨み付けていた。
あの時望美と登ったのは、繁みがうっそうと生い茂る獣道だった。
近道だから、と選択。
人を誘拐しやすいと言えばそうなのかも知れない。
更に間の悪い事に、あの時は望美以外の護衛を付けていなかった。
ヒノエと私が会った直後、影ながら見守っていた烏は彼の厳命を受ける為に足を止めたらしかった。
たまたま、な小さな要因も重なれば馬鹿には出来ないのだと学ぶ。
「だいたい将臣くんもいけないんだよ?もっとちゃんと手を打ってくれないと」
「わりぃ。俺も手が一杯だったからな。まさかお前まで巻き込まれるとは思わなかったし」
「巻き込まれたんじゃないよ。私は飛び込んだの。風花の為なら平気だから」
「‥‥‥お前、本当に風花に惚れてるな」
「当たり前だよ、誰よりもね」
将臣の気持ちを知りながら私を一番だと言ってのける望美は、かなりサドじゃないかしら。
この場にいれば噴き出してしまう。
「そろそろ戻るわ‥‥‥ごゆっくり」
「風花〜」
‥‥‥二人がこの先どうなるのか。
それは、当人達が決める事。
「あまり無茶しちゃダメだよ?」
「それはそうだけど‥‥‥望美には言われたくないかも」
「もう、本気で言ってるんだから!」
「ふふっ、冗談よ。ありがとう」
立ち上がると、不服そうな表情を浮かべる望美に少し笑って‥‥‥部屋を辞した。
「‥‥‥満月‥」
望美の部屋から出ると、夜だった。
星は雲に覆われて見えない。
代わりに、月だけは雲の間にある。
まるく、切り取られたように。
月だけの空は珍しい。
私室に向かいながら天を見上げて‥‥‥立ち止まった。
もう少しだけ、眼に留めたいと思ったから。
熊野の空を。
満月って、明るい。
星のない分だけ輝いて、誘っているようにさえ見える。
‥‥‥きしり、と、いつかのように足音がした。
「‥‥‥お帰りなさい、ヒノエ」
顔を見なくても分かる。
こんな時間にこの場所にいられるのは、私達だけ。
別当夫婦の部屋の前。
当然ながら、夜には誰も来ない。
私は振り向かずに柱に凭れたまま。
半分は月が綺麗だから。
そして半分は、拗ねている事を主張するつもりだった。
あの日、邸に帰ったあと、一晩中眠らせて貰えなかった私。
気を失うように眠り‥‥‥‥‥‥昼過ぎに目覚めた時から一週間。
そう、一週間、会えずにいた彼に対して若干拗ねていた。
残党を包囲し、結託していた全ての者を捕らえるのに奔走していた彼と、一週間振りの逢瀬だから。
勿論、彼の立場に口出しするつもりはない。
少しだけ困らせてみたいだけなんだけど。
‥空を、見上げたままでいた。
でもきっと、あなたにはお見通しなのよね。
ふっ‥‥‥と溜め息にも似た笑い声が聞こえたから。
「‥‥‥言ったろ?お前を月には返さない、ってさ」
静かな声音。
同時に視界から、月が消えた。
代わりに眼前に広がるのは、夜闇にも染まらず主張する、深紅。
「‥‥‥ヒノエは、月に妬いているのかしら?」
「さぁね。風花はどう思う?‥‥‥‥‥当ててみなよ」
頭一つ。
‥‥‥それだけ近付ければ、唇が触れるのに。
そう思うほどに、ヒノエの顔は近くて、そして遠い。
紅い眼が、誘う様に揺れているのに。
唇が、私を誘っているとさえ思わせるのに。
「‥‥‥ほら、答えないのかな?」
‥‥‥彼は私に、触れてさえ、いないのに。
柱を背にした私。
顔の両横には、すらっと伸びた彼の腕。
月を隠す様に立つ、彼の輪郭は淡い光を帯びていた。
月光を背に光を受けた彼は、月の化身の様で、眼が離せない。
いつもの様に触れてもいない。
けれど私の背筋はぞくっと震えた。
その、眼差しだけで。
私は今にも屈伏してしまいそうで、でも、しない。
強がりたい訳じゃないの。
ただもっと、あなたを見ていたいだけなの。
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