(5/5)
「‥‥‥え?」
頬に何かが触れた。
と思ったら詩紋くんの指先だった。
エレベーターを押す時も思ったけれど、繊細で長い指はキレイ。
この手が、この指が、人を幸せにするお菓子を作るんだね。
「何で、泣いてるの」
「泣いて‥‥る?」
「泣いてるじゃない。どうして?辛い事でもあった?」
辛い‥?
私が?
どうして。
飽和した思考はどうしようもなくて、考えられないまま首を振る。
「何でもないよ。それより早く帰ろう?」
「駄目」
「うん。‥‥って、え?」
「好きな人が目の前で泣いてるのに、このまま運転できる程僕は冷たくなれない」
その言葉に反応できなかった。
押し黙るしか出来ない。
「ねぇ、言って?寂しかった?」
そのキレイな指が、私の指にゆっくり絡む。
あ、小指‥‥ちいさくて可愛かったあの子と指切りした感触すらも、詩紋くんが奪っていく。
恋人つなぎの様に片手を絡めて、もう一方の手が私の髪をさらりとかきあげた。
寂しい‥?
うん、寂しい。
詩紋くんの大切な人達は皆暖かく、そして心までキレイだった。
詩紋くんと同じ柔軟な空気を纏っていた。
ああ、この人達が彼を今まで護ってくれたんだ。
そう思えば嬉しかった。
それに、こんな優しい彼に出会えた事を感謝も出来た。
「‥‥‥寂しい、のかな」
「よく分かってないんだ」
「‥うん、ごめん」
嘘だよ。
寂しいより、苦しいの。
詩紋くんの事を知らない自分。
‥‥‥それよりも、自分の事を詩紋くんに言えない事が。
本当はそれが苦しい。
けれどそれを口に出来なくて、代わりに私は違う言葉を唇に乗せる。
いつの間にか当たり前のように心で思う、もうひとつの本音を。
「‥‥好き」
付き合い始めた日に「好き‥だと思う」なんて曖昧な返事をして以来、一度も言った事がなかった。
言葉にするのは恥ずかしくて。
その前に、殆ど会えてなかったから、言い辛くて。
なのにおかしいね。
今、言いたくて仕方ない。
「‥‥‥それ、本当?」
俯いた表情は見えない。
けれど聞き返す声は擦れていて、切なそうだった。
「好き」
「‥‥っ、恋」
絡んだ手が離され、息が出来ないくらい抑え込まれて抱き締められる。
苦しいけれど、視界も感触も、全部が詩紋くんに染まる。
「本当は自信、なかった‥‥だから少しでも、僕を知って欲しかった」
「‥うん」
「僕、今、死んでもいい位に幸せだよ」
「‥‥死なれちゃ困るよ、私は」
「うん‥‥‥」
詩紋くんの愛用の香水は爽やかで、ほんの少しだけ甘くて。
匂いに包まれただけで泣きそうになった。
ふわふわの髪が頬を擽る。
ちょっぴり意地悪な詩紋くん、今は幼子みたい。
途端、込み上げる愛おしさ。
肩に埋めている詩紋くんの頭を、ゆっくりと撫でた。
「そんな事されたら自惚れるよ?」
「え、ええっ?」
顔を上げた、と思ったらにっこり笑っている。
今の元気の無かった彼は、幻だったのか。
「嬉しいな。今、君が見ているのは僕だよね?」
「そ、そうだけど‥」
そもそも車内には他に誰もいないのに。
この時そんな事を考えていたと、後で知った彼は苦笑する。
けれど今は先のことなんて何も考えられなくて。
触れる唇にドキドキした。
「役作り、もう終わった?」
「?うん、行きの車の中である程度は」
「そっか。僕はね、明日の昼から仕事なんだ。だから‥‥‥今夜は帰さなくても、いい?」
「‥‥えっ!?」
額に落ちてきた、優しいキス。
今の言葉の意味は、と反芻する前に目の前一杯に迫る唇が、意地悪な弧を描いた。
「言葉よりももっとお互いを知り合おうよ」
シン、と静まり返った空間。
眼を丸くさせた私を見て「恋、可愛い」と笑う彼の声が、私の世界の全てになった。
<
BACK