別
───惚れた女が他の男と一緒にいるのなんて見たくない。
佐助さんの言葉が何度もリフレインする。
あの言葉の主語は、誰?
「どの、‥‥‥桃殿!如何した?」
「‥‥‥あ、幸村。ごめんね、ボーっとしちゃってた」
考えに没頭していた私はどうやら、みたらし団子を持ったまま動かなかったらしい。
着物の太股辺りに描かれた桃の花に茶色の染みが広がっている。
慌てて側にあった手巾で拭き取っても既に遅し、繊維に染み付いた洗濯しても落ちるかどうか。
気付かなかった自分にどっぷりと落ち込んでしまった。
「美味しい?」
気を取り直そうと皿を見遣れば、いつの間にか大量にあった団子の姿はなく、空になった皿には串が沢山転がっていた。
「うむ。‥‥‥桃殿が隣にいれば、格段に美味でござるな」
「えっ?」
こんなストレートな物言い、今までの幸村なら絶対にどもって美味く言えなかった筈で、戸惑ってしまう。
「や、やだ幸村ってば。お世辞が上手くなったね」
「世辞ではありませぬ」
低められた声。
驚いて顔を上げると、涼しげな瞳が私を真っ直ぐ射抜いた。
「桃殿」
「なに‥‥」
「死線を彷徨った折に決め申した事があります。お聞き下され」
掠れた声に、どきりと脈打つ。
「う、うん」
頬に添えられた手が熱い。
「貴女と生きて再び相見える事が叶うならば、想いを余す事なくお伝えしようと思うておりました」
‥‥これは、誰?
幸村の顔をした誰か?
少なくとも、こんな時に照れて叫ばない幸村なんて、私は知らない。
「お慕いしております、桃殿」
濡れて、艶を含む眼差しにぞくりと背中が粟立つ。
逃げないように私の後頭部を抑えて、顔を近づけてくる。
そんな幸村なんて‥‥‥知らない。
「某を‥‥俺だけを、その眼に映して下され」
「え、やっ‥‥‥ちょ、待ったーっ!」
誰 だ こ の 人!?
下手に動くと唇同士がくっつきそうな距離にまで追い込まれて、ようやく我に返った。
受け入れる訳にいかないんだ。
私もちゃんと話すと決めていたんだから。
自分の気持ちを幸村に、話すって。
彼らが出陣した時に決意したのに、危うく雰囲気に流されてしまう所だった。
「ゆゆ幸村!落ち着いて!ね?ねっ!?」
どうにか手のひらで幸村の口を塞ぎ、危険は免れた。
よし、このまま押し返して‥‥‥と思ったのも束の間。
「ひぃっ!?」
今度はその手をかぷりと甘噛みされる。
「某は落ち着いております故、ご安心召されよ」
「いやいやいやいやご安心召されませんっ!どうしちゃったの幸村ってばっ!?」
「どうしたとは?桃殿」
「あなた本当に幸村?いつもと別人みたい」
座ったままずりずりと後退する私と、距離を開けまいと迫る幸村と。
地味な攻防戦は意外な所で幕を閉じた。
「ああ‥‥これも、幸村でござる」
とん、と背中に当たる感触。
気が付けば、幸村の部屋の隅──壁まで追いやられていたのだ。
ああもう、どうしよう。
じっと見つめてくる幸村の眼に、縫い付けられそうだ。
‥‥何という眼力なんだろう。
じゃなくて!
兎に角落ち着いて話が出来る状態に持っていかなくちゃ。
ちゃんと伝えなければ。
幸村が真剣な想いをくれたのだから、私も自分の気持ちを言わなくてはいけない。
「あ!あのね、幸村!私も話したいことがあるの」
「断る」
「そう、ことわ───って!何で聞いてくれないの!?」
「例え、桃殿のお心が何処にあろうとも」
壁に手を突いて、私を跨ぐ体勢で、ほんの僅か見上げた位置に切なそうな幸村の表情。
「‥‥某の答えは変わらぬ」
「っ!!」
「貴女が誰を見ていようとも、某は貴女しか見えぬ」
耳元に囁かれた声はとても優しくて、鼻の奥がツンとなる。
「幸村‥‥」
‥‥‥幸村は、知っていたんだ。
私が何処を見ていたのか。
それでも想ってくれていた。
痛いほど、真っ直ぐに。
壁に触れている手が小刻みに震えている。
吐息が掛かるほど近くにいるのに、彼は遠いものを見るように私を見ている。
実際、彼の中で私は遠い人間なのかもしれない。
‥‥‥やっと、気付いた。
本当にはっきりしないのは、佐助さんではない。
本当にどうかしているのは、幸村ではない。
全部、私。
佐助さんが好きだと言いながら、幸村にふらふらして。
幸村の好意を知りながら、それを中途半端に受け入れたまま、それでも佐助さんの影を眼で追って───。
そして今、追い詰められているのは私ではない。
真実苦しんでいるのは、幸村だ。
私がそこまで追い詰めてしまった。
私の、所為。
「‥‥幸村、聞いて」
「‥‥‥」
返事はない。
だけどさっきとは違い、ただ静かに私を見下ろしている。
きっと、私の声に滲む決然とした思いを感じ取ってくれたからで。
何処までも優しい人だね。
「ごめんなさい。幸村を、好きじゃない」
一度深呼吸し、それから、静かに言い放った。
「‥‥‥私はもう、誰も好きにならない。だから」
「‥‥‥」
「幸村のお嫁さんにはなれない‥‥」
出来るだけ冷静に言ったつもりだったのに、声が震えた。
こうして傷つけて、それが正しかったなんて分からない。
だけど、今言わなければこの先もっと傷つけてしまうだろう。それだけは確実だ。
事実を告げた筈なのに、どうしてだか‥‥‥苦しい。
幸村への仕打ちを嘆いているのか、それとも別に理由があるのか。
どちらにしても最低だ。
「‥‥‥承知した」
流れる沈黙が苦痛を呼び、込み上げるものを抑えるのも限界を迎えた頃、幸村がぽつりと呟きを落とした。
そしてゆっくり離れる腕。
顔を上げると後退した幸村が微笑した。
「桃殿との婚姻は、今を持って白紙に致しましょう」
「幸村‥」
「武士に二言はありませぬ。今後も桃殿は真田家の大切な御客人。それは変わりませぬ」
「‥‥っ、ごめんなさいっ‥‥」
「もう、何も仰いますな。‥‥‥貴女はこれからも、この幸村がお守りします」
何人たりとも貴女に後ろ指を指させませぬ。
最後にそう言って、自分の部屋を出て行った。
遠ざかる背中に謝ろうと思っても、口からは何一つ生まれない。
謝れば、彼の優しさを却って踏み躙ることになる。
恐らく彼はこれから御館様──信玄様に報告し、そして城中の人達にも話をするだろう。
白紙にしたのは自分の責任、私を責めることは許さぬ、と。
優しい幸村はきっと私を庇う。
誰に嗤われても構わないと、私を守ろうとしてくれる。
守ってもらう価値などありはしないのに。
「‥‥っ」
───幸村に、私が出来ることは一つしかない。
今まで受けた大きすぎる恩を、返せないけれど。
私が出来ることで、幸村の名誉を守れるのなら、喜んで為そうと思う。
「‥‥‥今までありがとう」
しんと静まり返った部屋で、知らず浮かんでいた涙を拭った。
そして翌朝。
「ごめんね。急に呼びつけて」
「まったくだ!これでお前への恩を返したぞ。これからどうする気だ」
「どうしようかなぁ。流石にこんな所にいるとは思わないだろうし、ゆっくり考える」
「相変わらず無計画だな。勝手にしろ」
「心配してくれてるんだ?ありがとう、かすが」
「っ、ふん!」
私は今、上田城からずっと離れた場所にいる。
幸村も佐助さんも気付かないであろう、縁を頼って。
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