腕
淡々とした佐助さんの話が終わった。
幸村は、戦に関係のない女の人を庇う為、幸村は身を挺して盾になったらしい。
そうでなければ、この無敵の若虎が斬られる訳がないんだ。
‥‥‥と、佐助さんと後から来た武将の人が言っていた。
「‥幸村」
そっと名前を呼ぶのもこれで何度目だろう。
そして返事がないのも何度目か。
性格と同様いつもは熱いその手が、今は冷たくて。
ぎゅっと握り締めても握り返してくれることもない。
破廉恥!って、頬を真っ赤に染めることもない。
部屋の中も外も慌しげに人が動いているのに、私は半ば呆然としながら幸村の手を握り締める事しか出来なかった。
皆も気遣ってくれているのだろう、誰一人邪魔だと言わないでくれている。
目に涙が滲むのは、決して埃っぽい空気の所為だけじゃない。
「‥‥旦那が言ったんだ」
誰に向けるでもなくぽつりと落とされた呟き。
返事をする事無く耳を傾けた。
「止血して陣に運ぼうとしたらさ、上田城に運べって。遠過ぎるから駄目だって俺様が止めても耳を貸さないでさ」
「‥城に?」
討たれた場所からこの城まで、かなり距離がある。
それに、この傷だ。
陣屋ですぐに手当てをしなければ助からないかもしれないのに。
それを知らない幸村じゃないと思う。
だったら一体、どうして?
顔を上げれば、佐助さんが苦笑していた。
「桃ちゃんと必ず帰ると約束したから、って」
「え‥‥」
「もう助からない。なら死ぬ前にあと一度だけ、顔を見たい‥‥‥そう思ったのかもね、旦那は」
「‥‥、馬鹿」
それほどまでにすきなんだよ、きみが。
そんな佐助さんの声が聞こえて、今度こそ涙が止まらなくなった。
馬鹿。
幸村の馬鹿。
胸が痛む。
痛んだ分だけ眼からどんどん溢れてくる。
「‥‥俺様が敵う訳ないんだよ」
「‥‥え?」
「ん?何でもない」
佐助さんがうーんと伸びをした。
緊迫感のない仕草が、この緊張した空気の中で浮いていた。
「‥‥なぁ、真田の旦那‥‥あんたが倒れてどうするんだよ。起きないなら桃ちゃん貰うぜ?」
「‥‥‥佐助さん!」
私が睨めば「冗談」と言う佐助さんの眼が、笑みで揺れた。
「ま、俺様に奪われたくなきゃさっさと起きなよ」
立ち上がった佐助さんは幸村を見て、それから私の頭をぽんぽんと撫でて、部屋を出た。
「ゆ‥‥むらっ‥」
幸村が運ばれてからどれだけ泣いたんだろう。
なのにまだ、涙は溢れる。
こんなに水分を出してもまだ、尽きない。
「幸村の馬鹿‥っ」
馬鹿って言われて平気なの?
何とか言い返してよ。
笑っても、困ってもいいから、反応を返して。
「聞いてるの!‥ゆ、きむらぁ‥‥っ」
残った私は幸村の手を握ったまま、もう一度その名を呼ぶ。
幸村
幸村
ゆきむら‥‥。
『怪我はないか?怖い思いをしたであろう‥‥もう心配いらぬ』
敵の刃から守ってくれた時から、優しかった。
『い、いや!礼には及ばぬよ。某の名は真田源二郎幸村、幸村と呼んで下され!』
束ねた長い髪が尻尾みたいで、笑顔は犬みたいだなぁって思った。
『桃殿は団子が好きでござるかっ?』
私が嬉しそうにすれば、さらに倍は嬉しそうに顔を輝かせて。
花、青空、橙色。
私が一度好きだと言ったものは全部覚えてくれていた。
幸村の真っ直ぐで綺麗な気持ちは、お館様や家臣の人たちにも筒抜けだった。
いくら鈍感な私でも気付かない筈なくて。
‥‥あの時だってそう。
『‥‥桃どどどの。そ、そそそそ、そっそっそそ某とっ‥‥』
奇妙なラップを歌うように言葉をどもらせた幸村は、『うぬぅっ!』とこれまた奇妙な声を上げると。
『そ、某のよよ嫁御になって下さらぬか』
真っ赤になって、きっと逃げ出したいだろうに、必死に私の両手を握っていた幸村。
子犬のように可愛くて、愛しい気持ちが溢れて笑いながら頷いた私に、
‥‥『うぉぉぉぉぅやりましたぞお館さまぁぁっ!!』とお館様の所まで走って行った幸村。
あの時はまだ私、恋を知らなかった。
誰かを、佐助さんを、思うこともなく。
真っ直ぐな幸村に対して、最低だったんだ、私は‥‥。
どれ位時間が経ったんだろう。
部屋の隅で薬師のお爺さんが、薬草を煎じている音だけが聞こえる。
それ程に静まり返った空間。
握り締めた冷たい指が、ぴくり、僅かに震えたのは。
「‥‥う‥」
「ゆっ、幸村!?」
思わず強く呼びかけてしまった私。
声に反応したのか、瞼が二三度震えてからゆっくりと持ち上がった。
長い睫毛が震えながらゆっくり開かれた、暖かい茶色が私を見て、くれた。
「‥‥桃‥ど、の‥‥?」
「‥ゆきっ‥‥!」
幸村、もう一度呼ぼうとした名前。
けれどそれは、腕を引かれ途中で途切れた。
「桃‥‥」
幸村の全身に刷り込まれた、飲めば苦そうな薬草の強い匂い。
傷を負ったからか、きっと高熱に襲われてるんだろう。
幸村の体温は、炎のように熱くて。
「‥ただいま、戻り申した‥‥桃‥」
「‥‥‥バカ‥っ」
褥に横たわったまま私を抱き締めるその腕は、強くて、現実だった。
→next