『松永の旦那が絡んでるのは調べが付いてた。けどさぁ、まさか町民を囮にするとはねぇ』

『なに、卿らを楽しませようと思ってね』


織田との合戦の帰り、武田軍に大打撃を与えたのは松永久秀が率いる三好軍の奇襲だった。
何とか撃退し、大将の元まで辿り着いた幸村と佐助は驚き立ち止まる。


冷酷で残虐な男──松永久秀の手に掴まれた、長い黒髪。
怯えて声も出せないのか、髪を引き摺られ震えながらこちらを見る女はまだ若い。
年の頃は、桃と同じ位か。

明らかに戦に関係のない娘。

その首筋に当てられた刃は今にも皮膚をぷつりと裂きそうだった。


『この娘が卿の執着する‥‥あぁ、桃、と言ったか?その娘でないのは残念だ』

『っ!!』

『彼女も良く似ているであろう?なに、代わりくらいにはなる』



笑わずに、告げた男。



『人が燃える様を見たくはないかね?』




幸村の内、炎が如くふつふつと湧き上がる、それは怒り。




『‥許せぬ!!』

『ちょ、旦那落ち着けって!挑発に乗るな!』


佐助が止めようとする腕を振り払い、駆ける。


虚を突かれ離れた佐助の手。
振り下ろされる刃。
恐怖で強張っている娘の眼差し。
風の音。

松永久秀の口許に刻む、酷薄な笑み。


‥‥それらは一瞬なのに、ゆっくりと視界に巡るのは何故か。



そう問う事もなく。
最早間に合わぬと悟ると、幸村は邪魔な槍を投げ捨てる。

己が身を挺してしまうしかないと、ただ必死に、手を。


伸ばした。



『旦那ーっ!!』


らしくもなく悲痛な忍の声が鼓膜に届く。
それから、全身の感覚を全て奪う衝撃が襲う。




眼を閉じる瞬間、笑顔が浮かんだ。






───桃







『また怪我して!もっと自分を大切にしてって、何度言ったらいいのよ』


……すまぬ、と心にもなく謝れば、苦笑を浮かべて。
男が持ち得ぬ柔らかく白い手が手当てする為に伸ばされる。

だが、怪我をすれば桃が怒ってくれるであろう?
その瞬間は自分だけを、視界に収めてくれる。
自分だけを。


本音を隠し、ひたすら桃の手が包帯を巻いていく様を見つめる。それが至福だった。





もう、いつからだったか思い出せない。

初めて、慕わしく思った人。
初めて、生まれて初めて、心から愛しいと。



彼女が誰を見ているか知っていても尚、手離せない。

彼女が。そして、相手が。
如何な感情を抱いているのか知らぬ程、愚鈍にもなりきれず。

だからと言え半ば強引に説き伏せて結んだ許嫁という名の関係を、それでも取り消し出来る程大人になれぬまま。










‥‥何処からか、声が聞こえる。



「ま、俺様に奪われたくなきゃさっさと起きなよ」


最も頼り、信を置き、それ故に申し訳なく思う男の声。
確信はないが、彼には感じるのだろう。

彼の主がこうして意識を浮上させつつある、今の状況を。

その上での「奪う」と、挑発する言葉。



───奪ったのは、お前ではない。



そう答える筈の声は、紡ぐ術を持たぬまま。
瞼が重く、男が離れる気配を感じる事だけを享受した。


しん、と静まった空間に、小さな物音がやけに響く。


「‥‥むらっ‥」


掠れ気味のそれは湿気を含んでいたが、それすらも愛しさを感じる唯一の、声が。


「幸村の馬鹿‥っ」


すまぬ、桃殿。


「聞いてるの!‥ゆ、きむらぁ‥‥っ」


某は‥‥‥俺は、もう一度貴女に会いたかった。
貴女の笑顔が見たい。

頼む、どうか泣かないでくれ。





幸村の瞼が、ゆっくりと持ち上がった。





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