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「え‥‥っ」
ゆきの手から竹籠が滑り落ちた。
ごとりと音を立て、土御門家の庭で取った季節外れの蜜柑が転がってゆく。
けれどゆきも、師の郁章も一瞥すら寄越さなかった。
「し‥師匠、今なんて‥」
「弁慶殿が婚儀を挙げるらしい」
「‥‥‥」
もう一度、繰り返す。
頭に入っていないのか、それともあまりの衝撃ゆえなのか。
ゆきの眼差しから光が消えてゆく。
「相手は熊野別当の従姉妹で弁慶殿の幼馴染みだそうだ」
「おさななじみ‥‥‥」
ぽつりと呟いて、思い当たる節があったのだろう。
ややあって「‥あ」と、視線を落とした。
「師匠、ちょっと休憩していいですか」
俯いたゆきから表情は見えない。
けれど、声が可哀相なほど震えていた。
「‥‥‥構わないよ。私は自室に戻るとしよう。今日はゆっくり休んでいなさい」
「‥ごめんなさい」
気を悪くした様子もなく、郁章は拾った蜜柑を籠に戻す。
それをゆきに手渡しながら、そっと微笑った。
「それからゆき、これはしっかり身に付けておきなさいと何度も言ったはずだが」
「‥あ!ご、ごめんなさい!!」
顔を上げたゆきが慌てて例の小刀を受け取った。
部屋の隅に転がしては駄目だ。
といつもの様に叱られるのを覚悟していたのに、その言葉はとうとう紡がれる事はなく。
「大切な物は常に離さないようにしなさい」
「‥はい」
郁章は、万物を射抜く星の光の様な、真剣な眼差しをしていた。
act18.激情
「弁慶、どうした?」
しん、と静まり返った室内に、九郎の訝しげな声。
朝緋との縁談、という衝撃発言の後一言しか発しなかった弁慶は、顎に手を当て黙ってしまった。
そんな弁慶を望美はじっと見ている。
(何を考えているの‥)
最近になって、意識を向けている幼馴染みの事か。
それとも、最近すっかり冷たく接していた恋人の事か。
痛い程の視線に気付いたのか、弁慶が顔を上げて望美に苦笑した。
「そんなに見つめられると誤解しそうですよ。僕も男ですから」
「っ!弁慶さん!軽口叩いてる場合じゃないでしょう!?」
望美が反応するより早く譲が咎めると、弁慶はまた笑い出す。
先程までの深刻な雰囲気は何処へやら。
そう誰もが首を傾げるほど、今の笑顔はいつもの弁慶だった。
「ふふっ。すみません、少し考え事をしていたので」
「考え事はもういいのか」
「ええ。そう言えば九郎はまだ話を聞いていませんでしたね。時間がないので後で構いませんか?」
「は‥?あ、あぁ‥朝緋殿の事なのか」
「それも含めて、後で‥‥そろそろ出てきたらどうですか、ヒノエ」
さらっと、何気なく掛けられた言葉に、その場に居た皆はぎょっとする。
室の入り口に立ったままの九郎も例外ではなく、座している弁慶達を挟んで正面の、庭木が揺れるのを眼にした。
たん、と、赤い塊が軽やかに降りる。
「アンタはとうに気付いてると思ってたけどね」
「今の君が誰に注意を向けているか考えれば、すぐに分かりますよ」
「へぇ、あっちだとは思わなかったのかい?」
「もしあちらだとしたら、今頃君の力を疑っていたでしょうね」
「‥‥初めからお見通しってのは気に入らないね。上手く使われた気分だけど」
「当然です。火種を持参したのは君ですから」
ああ言えばこう言う。
ぽんぽんと飛び交う応酬に、けれど話の内容に着いていけない一行は首を傾げた。
‥‥一体、何の話なのか。
あっちとは何なのか。
朧げながら見えている気もするが、根本的に何かが違うような、そんなあやふやな。
「ヒノエの報告は道中聞くとして、出発しましょうか」
「えっ?出かけるって何処へですか?」
望美の問いに、弁慶はにっこりと満面の笑みを浮かべた。
「白龍、望美さん、僕に力を貸してくれませんか」
「うん、いいよ。神子もいい?」
「‥白龍!私まだ何も‥‥、っ!!」
「‥‥」
「‥‥‥は、はい、喜んで‥」
「良かった。皆さんも」
「も、勿論喜んで〜!ね、譲くん!?」
「あ、はい!敦盛もいいだろ」
「あぁ」
「うむ」
「弁慶?一体何が‥、っ!?わ、分かった」
「‥‥まぁ、オレにも責任があるからね」
後に、この場に居合わせた者は語る。
笑顔は凶器。
長いものには巻かれろ。
長くなくてもキレた弁慶には巻かれておけ、と。
そして、夜が訪れる。
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