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「少し待っていて下さい。すぐに戻りますから」



手を繋いだまま、朝緋の私室に入ったかと思えば、表情の晴れない彼女を座らせ弁慶は室を出た。



「‥‥道具、取りにいったんだ」



ぽつ、と呟きを落としたと同時に涙が出そうになったがぐっと堪え、代わりに袖で唇を擦った。

がしがしと乱暴に拭う。
摩擦で熱を持ち、唇がヒリヒリするまで。











「‥‥俺の所に、来い‥‥ゆき」








獣の刻印の様に刻み込まれた感触は消えてくれそうにない。

たった一人、この感覚を上書きしてくれる人は居るけれど‥‥



「‥‥‥汚れたなんて、言えないよ‥っ」

「何が言えないんですか」



聞こえてきた声に、思わず声の主を捜さずにはいられなかった。
首を巡らせ眼が捉えた人は、薬師の仕事道具を抱えている。

口元は笑みを浮かべているものの、眼は笑っていない。


‥‥‥聞かれてしまった。


弁慶相手にどう話を逸らそうか。
眼を伏せ必死で頭を振り絞ったが、いい案など生まれる筈もなく。
そうこうしてる間に距離は縮められていた。


ごとん。道具箱を置く音が間近で聞こえ、それから続いて衣擦れのそれ。
正面に座した弁慶の手が肩に触れ、次いでもう一方の手で顎を持ち上げられる。



「‥それで?席を外した隙に、こんなに腫らした理由を教えてくれませんか?」

「‥‥っ、それはっ‥」



言えない。
言ったらきっと、嫌われる。

でも言えないままで居られない。



「‥‥‥ごめん、なさいっ‥」



他にどう言えば解らないから、謝罪しか生まれなかった。
泣けば卑怯になる。さっきよりも必死で堪えれば声が震えた。

弁慶以外に触れられてしまった自分が、酷く穢れてしまった様に感じる。

愛してると言ってくれたのに。
君だけだと、抱き締めてくれたのに。
ずっとずっと傍に居て欲しいと、君となら永遠を信じられると‥‥キスをしてくれる、弁慶を。


不可抗力でも、裏切ってしまった。



「‥‥何に対して?」

「ごめんなさい‥‥‥っ!」



何もかも射抜かれそうな眼差しに耐えられなくなった。
強まった弁慶の視線から逃れようとして俯くゆきの顎を、今度は強い力で上向かせ、真っ直ぐに捕らえられる。


何も言わなくても、弁慶はもう、気付いている。



思わず口を押さえようとしたゆきの手すらも、弁慶の手が簡単に捕らえてしまった。


ゆきの手は押さえられ、顎を捕らえた手の親指で、弁慶は唇をゆっくりなぞった。




「君は僕を甘く見過ぎていませんか」

「‥‥あ‥」

「血を出すまで、こんなに‥‥‥‥君という人は」



親指がゆっくり、ゆっくり撫でる。
綺麗な手だが、やはり実戦を潜り抜けた男のもので、指の腹が堅い。
薬師であり軍師であり、戦闘時に振るう長刀の強さは鍛錬を積んでいるのだから。



「‥ぁっ‥‥‥」



柔らかい唇を傷付けぬ様、そっとなぞる感触に、ゆきの肩はぴくりと震えた。



「隠さなくても、君が望んだ事でないと分かっていますから」

「弁慶さんっ‥だって‥‥」

「ゆき‥」




胸が、苦しくて、痛くて、切ない。
弁慶はずるい。
これでは泣けと言われているのも同然ではないか。





「嫌われ‥‥ると、思って‥!」

「嫌いになる筈はないでしょう?」

「‥‥あ、あきれ、られ‥‥っ」

「呆れる訳も‥‥いえ、確かに僕は、怒っても呆れてもいますね」




ぽろぽろと涙を流すいつものゆきにホッとしたのか、弁慶がにっこりと笑った。

嗚咽が漏れる唇を乱暴に自らのそれで塞ぐと、見開かれた眼から涙が止まる。




「‥怒りは、君を泣かせた知盛殿に。呆れているのは、君に」

「‥‥ごめんなさ‥んっ」



謝罪を唇ごと塞いで、弁慶はゆっくり眼を閉じた。

ゆきの手を離し代わりに腰に回す。
顎を掴んでいた手は、髪に潜り後頭部を抱き込んで。


時間を掛けたキス。


重なる唇は優しく、段々と深く、何度も角度を変える。
腔内を余す事無く辿ってゆけば、残っていた感触が愛しさに染められていった。







「‥‥んっ‥‥‥はぁっ‥‥」



息が上がった頃には優しく激しく絡まる感覚に、痺れるような快感が走って。

離れた唇が、寂しい。




「僕に消毒して欲しいと、言わない君に呆れたんですよ」

「‥‥‥だって、」

「以前言いませんでしたか?君は分かりやすいと。何があったかすぐに解るのだと」

「‥‥‥‥言ってたけど、でも!」




優しげな眉をほんの少し困らせながら、弁慶は微笑う。
それから一度だけ目を伏せて、そうして再度合わせられたのは、どこまでも柔らかな瞳だった。




「‥‥罪悪感は僕が消してあげますから。全部、ね」




愛しげに浮かべられたその微笑みに、ゆきは眼を奪われた。



「どうしよう‥‥全部、弁慶さんで染まりそう」




唇も、掴まれた部分も、声も言葉もみんな。


弁慶に塗り替えられてしまった。





「ふふっ。僕も君に、染められているんですよ。知っていましたか?」

「ひゃ‥‥っ、―――ぁ‥」




頬や瞼、耳に滑るように唇を寄せていけば、小さな声が零れ落ちる。


それら全てが、愛しかった。







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