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景時がやって来たのは、継信を下がらせて暫くしてからだった。
「遅いぞ。何処で寄り道をしていたんだ、景時」
「ああ、ごめんね〜!実はさっき此処に入る前、女の人に呼び止められてさ〜」
「女性ですか?ゆき‥‥ではないですね」
予想もしなかった景時の言に、弁慶は筆を持つ手を止める。
女の子、と聞いて咄嗟に思い浮かべたのは、弁慶の良く知る存在。
そしてすぐに否と思い直す。
朔や望美、そしてゆきを「女の子」と景時は言わないだろう。
ゆきは今頃修行の為に土御門邸にいる筈だ。
残り二人が此処を訊ねて来たとしても、景時なら中に通すだろうから。
案の定、景時は苦笑しながら頭を掻いた。
「あ〜、うん。ゆきちゃんじゃないよ。初めて見る女の人」
「その女性がどうかしたのか?」
「う〜ん‥‥‥」
「景時?」
弁慶の脇で頼朝への返書を認めていた九郎もまた、訝る。
景時が歯切れの悪い時は、何もこれが初めてではない。
けれど、こうも困っているのも‥‥‥困り果てていると言うより、苦笑いが濃いのも珍しい。
「景時?はっきり言え」
「‥‥‥あのさ〜、弁慶に用があったんだって」
「僕ですか?」
「うん。あ、多分心当たりあるんじゃないかな?二十歳位の綺麗な人なんだけど」
「‥‥‥いえ?」
一頻り首を捻って、心当たりがないと答えた。
正直、今の自分には女性とあまり接する機会がない。
あると言ってもそれは薬師として接する患者が女性だった場合。
それ以上に、個人的にどうこうという物ではなかった。
「患者の女性が礼を言いに来たのではないか?」
「そうかもしれませんね」
眉を顰めながらの九郎の言葉に、弁慶はそうかもと頷く。
他に思い当たる節がない。
昔は兎も角、今の弁慶は実に清らかな生活を送っているのだから。
「それがね、違うんだ‥‥‥本当に心当たりはない?」
「ええ、ありませんよ」
ずい、と身を乗り出す景時に真面目に頷いて。
先程からやけに突っかかる事実に、心の表面がざらついた。
そんな彼の心中を知ってか知らずか、「そっか〜、そうかもしれないね〜」とまた頭を掻く。
そして深い溜め息を吐くと切り出した。
「‥‥‥昔、君の恋人だった事もあるって」
「‥‥‥‥‥」
「源氏の総大将の片腕になってる噂を聞いて、会いたくなったから来たって言ってたよ」
‥‥それがどうしたと言うのか。
確かに昔、遊んでいた女だったかも知れない。
この歳まで女を知らぬ訳はないし、かと言って溺れた訳でもない。
自分の容姿が人を惹き付ける事も、女に惚れられ易いとも当たり前のように知っている。
若い頃は来るもの拒まずで、遊んでいた時期もあった。
恋などない、身体だけの関係。
それこそ、ゆきに出会うほんの少し前までは。
彼女に出会う少し前から、平家との戦が表面化した為に暇がなくなったので、それ所ではなくなったが。
訊ねてきたと言う女は大方、そのうちの一人だろう。
悪いとは思うがそれ以上の感情は持ち得なかった。
「それで、その女性は何と言っていたのですか?」
「会いたいって。でも此処は頼朝様から預かってる邸だからね〜。丁重に断ったんだけど中々納得してくれなくて。だから時間が掛かったんだ」
景時の眼が弁慶の外套をじ、っと見据える。
その眼は真剣で、だからこそ弁慶は景時を見詰め返した。
彼が言いたい事がとても、「追い返すのに手間が掛かった」等という苦情でないと思ったから。
「‥‥‥泣かせちゃダメだよ、弁慶」
誰を、何から、と言う分かり切った問いは伏せておく。
そして景時が何故こうも真剣な、まるで睨みつけるかのように視線を合わせてくるのかも。
彼の口から吐かれる事のない副音声ごと、弁慶は拾って頷いた。
「心しておきますよ」
「何だ?何を泣かせるなと言っているんだ?」
今一掴みきれて居ない九郎は放っておいて、頷く。
‥‥‥今はあの時とは違う。
自分には何を捨てても失えないものがある。
あの笑顔を手に入れた今、それを失うことなど考えられないのだから。
(君の思う意味では泣かせる気はありませんよ、景時)
違う意味でなら、保障する気もないけれど。
泣かせて、誰かに慰める隙を与えるつもりはない。
弁慶の副音声もまた、伝わったのだろう。
景時はまた苦笑した。
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