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「ほぅ、恐怖で動けぬか‥‥‥ゆき」
「‥‥っ!!何で覚えてっ‥」
漸く発せた声は、ゆきが思うほど震えずに済んだ。
知盛が名前を覚えているとは、思わなかった。
と言うよりも、ゆきの顔ですら忘れているだろうと何となく思っていた。
生田以来、会わずに済んでいるのだから。
‥‥‥否、顔は覚えていたとしても、それでも。
まさか後ろ姿だけでゆきに気付くなんて。
背筋を走る得体の知れぬ‥‥これは、悪寒。
「ククッ。薄情なお嬢さんだ‥‥あれ程激しく見詰め合ったというものを」
「ちがっ‥!あれは‥!!」
後ろから腕だけ伸ばして掴まれている帯。
少しずつ、少しずつ力が加えられて知盛の方へと引き寄せられようとしている。
「離、して‥」
これ以上、近づくのは危険なのに。
逃げなきゃ。
相手は自分を二度も殺そうとした男なのだから。
(弁慶さん。弁慶さんっ‥‥!!)
震える身体をどうにかしたくて、何度も何度も弁慶の名を呼んだ。
まるで呪いのように、何度も。
実際、ゆきにとってそれは呪言と変わりないのかもしれない。
愛しい名を呼んで‥‥‥そうすれば不思議と落ち着いた。
ありがとう、と此処に居ない彼に感謝して、頼りない足に力を籠め踏ん張る。
けれど。
「‥‥クッ‥面白い」
ぐいっと引こうとはせず。
ゆきがじわじわと退がる様、力を加減する知盛がニヤリと笑った事が、背後から伝わった。
「その程度の力で、俺を振り払えるつもりか‥?」
何故、こんな事になっているのか分からないけれど
知盛は明らかに、ゆきで遊んでいる。
「っ‥‥‥」
さっきの恐怖は薄れ、代わりに悔しくて涙が滲んだ。
悔しい。
分かっている。
自分がどれだけ泣き虫で、怖がりなのか。
トラウマは深くて、今でも乗り越えられてない。
(ううん。乗り越える強さもないよ、私‥‥)
生田では立ち向かえたのに。
あの時はただ、自分を庇って倒れた兵士を守りたい一心だっただけ。
深い所で恐怖は、ゆきをがんじがらめにしたままだった。
どうにかしなきゃ。
胸の奥がざらつき、奇妙に痺れる心地に耐えながら、ゆきの手は縋り付くように襟元に這う。
すると指先は、絹を通して硬質な塊に触れた。
(‥‥これは、)
そうだ、と手を懐に差し入れようとしたけれど。
同時に聞こえた声音の得体の知れなさに身震いが起こる。
「あの時の‥‥血に塗れたお前の様に‥‥‥」
(‥‥‥無理だ)
今のゆきに、この男の不意をつくことなんて出来ない。
知盛の全神経がゆきに向けられている様な‥‥粟立つ感覚を覚える今では。
(臨兵闘者皆陣烈在前!)
代わりに、襟元からはみ出ていた紙に触れて、高速で九字を唱え、もう一方の指で素早く印を結んだ。
不意を突く事は出来なくても、高速呪は身体に叩き込まれている。
「‥‥俺を愉しませろ」
‥‥‥うなじに焼けるような熱。
手刀が叩き込まれたのだと、急に暗くなる視界の中で考えながら
小さな羽音が飛び立つのをどこかホッとしながら感じた。
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