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「神子」
彼の声が好きだった。
出来れば名前で呼んで欲しいと思うけれど。
それでもその呼称は自分だけに向けられたものだから、それでいい。
「お前の言葉はよく解らぬ」
整い過ぎた容貌でこちらを向く眼がたまらなく好きだった。
時折色違いの宝玉が柔らかく緩む。
その瞬間にどれほど心震わせているのか、彼は知らない。
いつか、笑顔を浮かべる日がくる。
いつか、自分を人形だと告げる時の悲哀がなくなる。
いつか、自らを戒める悲しい呪縛を解き放って。
「神子?」
「何でもないです。今日は東大寺ですよね」
「そうだ。強い怨霊の気が流れている」
あなたはもう人形じゃない。
途方もない優しさも、そっと触れる時のぬくもりも、私は知っているから。
「終わったら、糺の森へ行ってみませんか?」
「‥‥‥北の方角に乱れた気は感じない。が、神子には違うのかも知れぬ」
「‥‥‥そうじゃなくて」
「‥‥‥?」
二人っきりでいる時間を引き延ばしたいだけ。
なんて正直には言えず、言い訳を考えながら頬が朱に染まってゆく。
「ええと、そう!疲れを取る為です。怨霊と対峙した後って少し気が乱れてる感じがする、のはあくまでも主観なんですけど!綺麗な空気を吸ったら気分一新出来るんです」
「あそこの気は清い。神子が言うならばそうなのだろう」
ほら。
深く追求せずに、分かった、と頷いてくれる眼がとても優しい。
───好きです。
あなたは私に、恋の色を与えてくれたひと。
別れの刻が近付いていた。
「好きだ」
「‥‥‥っ」
堰を切ったように溢れる感情が、好きの一言に込められている。
嬉しい。
あなたが笑うようになった事も、呪が解けたことも。
何より、あなたが抱き締めてくれること。
「私も、 が好き‥‥っ!」
「ああ。‥‥神子、好きだ」
「‥‥‥はい」
「自覚した想いを止められぬ。好きだ」
言葉なんかじゃ足りない想いを、きつく抱き締め返して伝える。
初めて会ったときは少し怖いと思った。
整い過ぎた顔と、感情を宿さぬ色違いの瞳が。
けれど、誰よりも無垢で硬質で傷付きやすい、金剛石の様な心に惹きつけられたのはすぐ後だ。
「お前は私が守る」
「はい。私も、 を守ります」
「お前と離れる事など出来ぬ。‥‥‥神子っ!」
もうすぐ別れの時がやってくる。
今から、京を混沌に陥れた原因の鬼を、倒す。
倒した後は生まれ育った世界に戻ることになっているから。
お世話になった人達や他の八葉には挨拶を済ませた。
最後になった彼にも心からの感謝を告げて、笑顔で戦いに挑む筈だったのに。
言葉を紡ぐ前に、彼の強い抱擁を受けた。
好き、と言ってくれた。
「好きです。あなただけ、ずっと」
離れたくない。けれど、
───黙っててごめんなさい。
京に蔓延した怨念を浄化する為、龍神を召還する。
代償としてこの身は遠く彼の手の届かぬ世界へ行ってしまうだろう。
元の世界ではなく、神の贄として消滅する。
忘れて、なんて言えない。
彼にだけは忘れて欲しくない。
やっと人としての一歩を踏み出せた愛しい人。
幸せになって欲しいのに、消えてしまう自分を忘れないで欲しいと思う邪な自分。
「‥‥‥ひとつだけお願いしていいですか?」
「ああ、構わぬ」
少し身体を離して、顔を覗きこむ。
彼も真実に気付いているのかもしれない。
ただの別れじゃないことに。
悲壮な表情を浮かべるその顔は、なんて綺麗なんだろう。
「一回だけ。神子じゃなくて、名前で呼んでください」
最後に、本音を隠して笑う。
「分かった」
彼もまた頷いた。
「いつまでもお前が好きだ」
ねえ、名前を───
「ゆき」
───え?
「何を驚く?お前の名だろう?」
わたしの?
そうだ、わたしの名前。
‥‥‥でも待って。
何かおかしい。
この記憶は、なんだかしっくりこない。
「全て、お前のものだ。お前に刻まれた魂が訴えている」
わたしの中で強く頷く気配がある。
でも。
でも、神子は‥‥‥。
「泣くな。お前は覚えている筈だ」
そうだ、覚えている。
あれはわたしの記憶。わたしが恋した存在の記憶。
でも、違う。違うよ!
わたしが好きになったのは‥‥‥!!
「ゆき」
押しやられた心の隅からむくりと起き上がるモノを、やんわりと、その声が包む。
白い光が強くなって、わたしの身体を抱き締める。
「お前は覚えているよ。輪廻転生を果たして巡り会った運命の存在を」
覚えているよ。
──違う。
わたしが会いたかったのは。
──わたしが好きなのは!
「お前と私は対極にして絶対。お前は私の神子。私はお前の神だ」
──違う‥‥‥。
「名を呼んでごらん、ゆき」
わたしは、このひとに会いたかった。
──違う!呼んじゃだめ!帰れなくなっちゃう!
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