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庵の入り口に立ち、黒い外套が小さく遠ざかるまで見送った。
完全に彼の気配が消えると、溜息を吐きながら振り返る。
「お疲れでしたら、薬湯をお持ちしましょうか」
郁章の斜め前に突如現れた女に動揺するでなく、郁章が頷いた。
「頼むよ」
「畏まりました」
「ああそうだ、芙蓉は彼をどう見る?」
唐突な問いを投げかける主に、芙蓉と呼ばれた美しい式神は顔色を変えず答えた。
「弁慶様はゆき様を深く案じていらっしゃるようですが」
「そうだね。あれ程純粋な殺気を受けた事はない。危うく身の危険を感じたよ」
苦笑を浮かべる。
郁章の言葉遣いが、先程までとは変わって軽いものとなった。
先程のあれは、『陰陽師らしい威厳』とやらを醸し出してみようという、茶目っ気から。
尤も、郁章の思惑は弁慶に見抜かれていただろうが、それはそれで楽しめた。
「挑発されるとは、郁章様らしくありません」
「手の込んだ術を仕掛ける癖に、かい?」
「ゆき様を泣かせるのが本意ではない筈でしょう」
「‥‥‥お前も人間臭くなったねぇ。あの子の影響力が末恐ろしいよ」
能天気で涙脆くて頑固で、お人好し。
そんな郁章の弟子。
芙蓉がゆきに出逢ったのは、ゆきが土御門家にやって来たとき。
最初から世話をしていたからか、僅かとはいえ『感情』を有し始めたらしい。
他の者は兎も角、郁章にはそれが不思議とは思わなかった。
本来、生命を持たぬ無機物である式神。
優れた陰陽師ならば感情に近いものを植えつけられたとしても、感情そのものを持つことはない。
だからこそ、絶対的な主従が成り立つのだ。
尤も、例外は存在する。
その最たるものが、安倍晴明の生み出した『人型』
式神とははっきりと異なる。
だが、女の腹から生まれぬものが、感情だけでなく生命を宿すのは奇跡と言える。
それを生み出せるのは、かつての大陰陽師のみ。
郁章にさえ不可能だと思われる程の、強大な力と術。
そう。晴明とは同一の存在でない、郁章には‥‥‥。
「心配無用だよ。私の役目を忘れてはいない」
式神らしくない不満気な表情を浮かべる女の頭を撫でる。
「‥‥あれが、本心だとしてもね」
その先の言葉は、夕闇の中に消えていった。
弁慶が京邸の門を潜ったのは、茜色の空が終わりを迎えた頃だった。
「お帰りなさい、弁慶殿」
「遅かったんですね。皆、腹を空かせて待っていますよ」
「それは‥‥‥すみません、朔殿も譲くんも。所用が思うより長引いてしまったものですから」
玄関まで出迎えてくれた二人に対し、申し訳なさそうに瞼を伏せる。
「ふふ、冗談よ。丁度今出来上がった所なの」
「すみません。たまには俺も弁慶さんを見習って、冗談のひとつでも言ってみようかと思ったんです」
「そうなんですか?‥‥‥譲くんも随分、成長しましたねえ」
「す、すみません!」
にっこりと微笑む弁慶の背後に、般若像が見えた気がした。
譲のくせに生意気なと、黒い外套の下で思ったのかは定かでない。
けれど、それ以上譲をからかう言葉は、軽やかな足音の前に立ち消えた。
「弁慶さんってば!有川くんが怖がってる」
「ふふ、ゆきの誤解ですよ」
「そうかなあ。ほら、有川くんの顔が真っ青じゃないですか」
「あら本当ね。大丈夫かしら?」
「‥‥あ、ああ、助かったよ元宮。もういいのか?」
「任せて!望美ちゃんと景時さんが手伝ってくれたから、あっという間に運び終わったよ。だから呼びに来たんだ」
「ありがとう。じゃあ、先に行ってるわ」
「うん。後で弁慶さんと行くね」
朔が笑いながらゆきの頭を撫でて、譲を連れて邸の奥へと歩いて行く。
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