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「え‥‥?」
聞き違いでなければ今、未来を左右する言葉を聞いた。
思わず瞠目した私に、跪いた姿勢のまま彼は首を傾げる。
「聞き取れぬか。ならばもう一度‥」
「ま、待って!」
咄嗟に遮るのは、彼の言葉が聞こえたことを示す為。
「聞こえたけど‥‥‥あの、今のって‥」
「この世界での正式な求婚方法だと聞いているが、違うのか?」
「ち、違わない!」
真顔で唐突な言葉を告げてくる彼に、いつも心臓が持たなくて。
ほら───今も。
あなたは、私の涙腺を簡単に壊してしまえる人。
「何を泣く?」
「っ、嬉しくて‥っ」
「‥‥‥そうか」
少し困った表情で私の涙を拭こうとする。
そんな彼の手を取り、頬を寄せた。
嬉しい。
愛おしい。
胸が喜びで張り裂けそうなの。
「もう一回、聞きたい‥」
「結婚して欲しい。何があってもお前を守る‥‥‥共に、生きよう」
「‥‥はい!」
私の左手に加わった微かな重み。
一生をかけて貫く、あなたへの操の証。
この日のこと‥‥忘れない、ずっと。
翌朝、まだ白み始めた空が夜が終わり切っていないことを告げる。
梶原邸の庭にある小さな池には、こんな早朝には珍しい人物が、水面を覗き込んでいた。
透明度の高いそこには、睡眠不足で浮腫んだ顔が映っている。
(わ‥‥酷い顔)
無理も無い。
一昨日の寝不足に続き、昨日は夜中に目覚めてから悶々と考えてしまい、結局は褥の上で白む空を眺めていたのだから。
‥‥‥また、夢を見た。
強まった力、安倍家の力が訴える。
もう考えなくても分かるのだと。
あれは誰の夢か。
どうして「私」があの光景を見ているのか。
‥‥全て。
「‥‥時間がないんだね」
余韻に浸り泣くのは後。
とにかく今せねばならぬのは、郁章と連絡を取ること。
そう切り替えるとゆきは静かな池に手を翳す。
呪言を唱えることなく眼を伏せた途端、手のひらから力が溢れてゆく。
それは水に吸い込まれてゆき、水面の一部が光を放った。
呪を用い作ったのは、水鏡。
「師匠‥‥師匠、聞こえる?」
かつて、古の大陰陽師・安倍晴明が母を探す為に用いたという連絡手段。
安倍の末裔である土御門家の者は離れた場所でもこうして繋ぎあうことが可能なのだ。
例え湯呑みに注がれた茶であっても近くに水さえあれば、呼びかける声は届く。
何度か呼びかけた後、ゆきは溜息と共に肩を落とした。
やはり、今日も返事はない。
郁章ほどの人物から何の応えもないと言うことは。
彼が返答出来ぬ状況下に置かれているか、或いは──故意に無視しているか。
どう考えても限りなく後者に近いとは思いつつ、それでもゆきは一抹の不安を覚えた。
もう一度呼びかけようとした、その時。
「ゆき、どうしたの?」
「え?あ、白龍だ」
突然後ろから掛けられた声に驚きながらも振り返れば、白龍が首を傾げていた。
一瞬、陰形が破られたのかとひやりとする。
けれど、相手が龍神と知ってほっとした。
「おはよう。白龍こそどうしたの?まだ早いよ」
自分の事は棚に上げてにっこり笑いかける。
「神子の気を感じたから、起きたの」
「そっか、望美ちゃんも起きてたんだね」
ゆきの問いに白龍が一瞬だけ眼を伏せて、首を振る。
「ううん」
「え?‥‥‥だったら部屋を見てきたら?まだいると思うよ」
(何なんだろ?ま、いいけどね)
白龍には申し訳ないが、もうすぐ完全に朝日が昇ってしまう。
そうなったら幾ら陰形の呪を掛け直しても、勘の良い梶原邸の住人達に気付かれる恐れは高い。
袂を分かった筈の師と一体何を話したいのか。
それを問われると非常に困るから、内心焦りながらもひた隠して白龍を邸に戻そうと試みた。
‥‥だが。
「ねえ、ゆき」
「‥‥なあに?」
「ゆきは、先代の神子と地の玄武の娘」
「そう、だけど。どうしたの?」
母・あかねは白龍の神子だった。
そして父の泰明は、地の玄武。
その事実を知ったのは、この時空に来てからで。
教えてくれたのは師である土御門郁章と‥‥‥目の前の龍神だというのに。
今更どうして、とは思う。けれど。
一向に立ち去ろうとしない白龍から感じる、気。
何故か憂いを含んでいる感覚を覚えて、ゆきは戸惑った。
(白龍‥?)
この気に感情を付けるなら、「悲しみ」なんだろうか。
「あなたは‥‥‥」
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