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「僕の許嫁を返してもらいに来ました」



外套越しに伝わる熱。

背中を支える腕。

薬草の匂い。

愛しい愛しい、匂い‥‥‥。





それらに包まれて、涙が出た。
泣いて、逢いたかったと思いの丈を叫びたかったけれど、それが出来ないから。
せめて伝わるように、ゆきは弁慶の外套の箸をぎゅっと掴んだ。

視線は油断なく当主に向けている。
けれど、先程とは違って心が包まれている気がした。



「源氏の軍師殿か。そなたには確か、他の娘が居よう?そこの娘は土御門家の娘ゆえ、速やかにこちらに渡されよ」

「‥‥っ、弁慶さん、私はっ」

「ゆき」



ゆきの言葉を呑み込むように、弁慶はそっと笑う。



「話なら後で山ほどあるんですが、今は僕を信じてくれませんか?」

「‥‥はい」



さっきも言った、「信じて」の言葉。
さらりと告げられたその言葉に、祈るほどの想いが籠められている事に、ゆきは気付かないだろう。





‥‥‥信じて欲しい。
君なしでは生きていけないと、半ば狂気に染まる想いを。


否。
そんな事をずっと思って生きているのだと、彼女は知らない方が幸せかもしれない。




「熊野の姫君との縁談なら、初めから無効なんですよ」

「‥何?」



無言の当主の代わりに、左後方から声が上がった。

昼間に鎌倉より縁談を言い渡されたのは九郎だ。
彼が真っ先に反応するのは当然だろう。
そう思えば弁慶の口元に笑みが浮かぶ。



「兄上が用意された縁談だぞ。事情は分かるが、簡単に無効だと──」

「無効なんですから仕方ないでしょう?まぁ、まだあちらからの正式な書状は来ていませんが」

「‥‥はぁ?弁慶、書状ってなんだい?」



景時にも初耳なのか、彼もまたぽかんと間の抜けた声。

腕の中をちらりと見遣れば、当主に警戒の視線を向けたまま、ゆきの身体が強張っていた。
きっと、その先を聞きたくて仕方ない。けれど怖い‥‥なんて考えているのだろう。
益々緩くなる口元を引き結ぶと、弁慶は静かに成り行きを見届ける当主と視線を合わせた。



「以前、熊野で後白河院の行幸があって同行させて頂きました」

「‥あ、あぁ。あの時か。あれは同行というか偶然──」

「その折に、院には紹介させて頂いたんですよ。僕の許嫁のゆきを」



九郎の言葉はまたしても遮り、「偶然会っただけだ」と続けるのを防ぐ。
そして続けられた言葉に、九郎は勿論一向‥‥ゆきも首を傾げた。



(え?‥‥‥‥ええっ!?)



思い出した。
いや、思い当たる節はこれしかないというか。

熊野に行った時に法皇に会ったのは一回。
確か、熊野川に巣食う怨霊退治に出かける途中の事だった。
かれこれ二年ほど前の。


院に、許嫁のゆきを紹介したと言えば。
それって、まさか‥‥



 
 





「‥‥‥して、そこの娘は?なかなかに美しいが」

「え?私?‥‥‥」

「彼女は僕の許嫁です、後白河院」

「‥‥‥へ?」





(まさか、アレのこと?)


それ以外に思い当たらない。

そして同時に、九郎達も思い出した様だ。



「‥‥‥」

「‥‥‥」



沈黙が訪れた。



「後白河院の元に鎌倉方から書状が着くより早く、僕とゆきの婚儀を取持つよう認めた書状が使者の手に渡っている事でしょう」



如何に頼朝といえど、後白河院の命を無視することは出来ない。

頼朝が誰と縁談を命じて来たとしても。




法皇直々に執り行う婚儀を、潰す事など叶わない。





「‥‥ほう。そなたの策か」

「策だなんてとんでもありませんよ。僕はただ、早く身を固めてしまいたかっただけです」

「‥弁慶さん、だからずっと、忙しかったの‥?」

「‥‥‥その所為で君を沢山泣かせてしまいましたね」



弁慶は柔らかく微笑む。

それがとても切なくて、ゆきは何度も首を振った。



「ううん!ううんっ‥‥嬉しい」



ずっとずっと、避けられていると思ったのに。
朝緋に心が行ってしまったのかと。
もう捨てられるのかとも。


それでも、離れている間に気づいた。




どんな形でもいいから、弁慶の傍にいたい。

何があっても諦められないほど、好きなんだと‥‥。






「これは院宣と取って頂いても良いと思いますが」

「‥‥‥成る程。流石は軍師殿。我が一門も今回は見送るとしよう」

「僕の許嫁に今後一切の手出しは無用です、ご当主殿」


喉の奥で深く黙り込んだ当主を正面から見遣り、弁慶は眼光を鋭くさせた。



「だそうですよ当主。引き際も肝心でしょう」



かさり、沓音がしたのはその時。
その音に皆が顔を上げるほど、その瞬間まで誰一人気付かなかった。



「郁章。そなたも居たのか」

「ええ。他人事ではなかったので」



弁慶に近付くのは、場の空気にそぐわない楽しげな笑顔の男。



「師匠‥‥」

「行きなさい、ゆき。後の事は私に任せて構わない」



少し屈んで、弁慶の片腕に抱かれているゆきと視線を合わせる。



「でもっ、師匠が叱られて‥」

「───心配しなくていい。君とはまた会う事になる。縁が切れるまで、私達は会う」

「‥‥え?」



殆ど聞き取れないくらいにそっと、囁かれた言葉に首を傾げる。



「あぁ、こう言えばいいかな?私は君と夫婦になるのは真っ平御免だと」

「っ!!私も弁慶さん以外と結婚しませんっ!大体くそ意地悪なのは弁慶さんだけで充分だもん」



一気に言った後でゆきは固まった。
腕の力が強くなる、それもかなり痛い。



「くそ意地悪ですか‥‥‥ゆき?」

「‥‥ご、ごめんなさい!」

「話なら後で沢山しましょうか?」

「ううっ‥」



時間を経ても相変わらず呆けているゆきの姿に、何処からか苦笑が聞こえて。
その後弁慶にぎゅうぎゅうに羽交い絞めされている姿に、笑い声は大きくなった。



───やっと、帰ってきた気がする。



陰陽師の娘と共に、
本来の穏やかな軍師が。








 

act18.激情
20090503




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