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「こんなものしかないけどね」

「いえ。すみません」




『汚いとこだけど雨宿り位になるよ』


有り難い申し出を受け老婆の家に通され、熱い茶まで出して貰った。
ふぅふぅと息を吐いて冷ます。

老婆が茶を沸かす間、ゆきは伏せ眼がちに家の中を見回していた。



‥‥‥京邸とは雲泥の差の、小さく粗末な家。



ゆきの世界で言う文化住宅のような並びだが、もっとみすぼらしく、暗かった。
天井は穴が数か所開いてあり、ちょうど真下の位置に雨水を受ける桶が、いくつも置いてある。
壁も古く、木材が腐っているのか所々穴が開いていた。

老婆の身に纏う着物も薄汚れている。



(ここにいれば、私も浮くなあ)



春に弁慶と来た時もそう、同じ事を感じていたけど‥‥‥やっとその「理由」が分かった。




京邸にいれば、ごく質素な部類になる、ゆきの普段着姿。

だが、ここにこうして座っていれば‥‥‥場違いな令嬢の様だった。
ゆきの衣は普段着でも、五条大橋の畔に住む人達には手の届かない高価なもの。



(でも、これが‥‥‥現実)



湯呑みから溢れる湯気が一段落した頃に、猫舌のゆきはようやく口を付けた。
半分程飲んで、ほぅと息を吐く。



「‥‥‥おいしいです。身体が暖まりました」



ホッとした様子の老婆を見て、


(このお茶も、一番いいものだったんだろうな)


とゆきは思った。



「いいとこのお嬢さんのお口には合わないかと思っていたよ」

「いえ、とんでもない!‥‥‥私、とある方にお世話になっているだけで、お嬢さんなんかじゃないんです」

「‥‥‥おや?この前会ったのはお兄さんじゃなかったのかい?親御さんは?」



気忙しく動いていた手が止まり、老婆はゆきを見た。


本当の事は、言えない。
時空も世界も違うなんて信じて貰えない。
けれど、言える範囲でなら本当の事を言おうと思った。

‥‥‥何故か、聞いて欲しかった。



「私、行き場を無くした所を、今の兄に拾って貰ったんです。両親は十一歳の時に、あの‥‥‥さ、災害で亡くして、その後引き取ってくれた伯母も病で‥‥‥」



どう説明しようか。
考えながら、つっかえながら話すゆきをどう思ったのか。

老婆は膝でにじり寄ると、俯き座るゆきの手をそっと両手で包み込んだ。



「‥‥‥そうかい。それは辛かったね」



ぽつん、と呟かれた。

短い老婆の言葉が、こんなにも。



「‥‥‥‥‥‥‥‥‥っ」



その手が暖かかったから。


泣かない、と決めていたのに‥‥‥ぼろぼろと涙が出て来た。



背中を擦る手が、母の様に暖かかったから、余計に涙が止まらなかった。



今更ながらに思う。

辛かった、ずっと。



恋も裏切りも

嫉妬も恐怖も

‥‥‥‥‥‥もういっぱいで。



立ち止まれないのに、

立ち止まりたかったのだ、ずっと。




ただ笑っていたかった。

望美達が来る前の、ただ皆に愛され、愛して居た頃が懐かしかった。



それでもきっと、あの頃と今のどちらかを選べと言われたら‥‥‥。

間違いなく、自分は今を選ぶ。

どんなに辛くても彼を想う事だけは、後悔したくないから。




ゆきは静かに涙を零し、あやす様に老婆は背を撫でてくれた。












「‥‥落ち着いたかい?雨に濡れて随分と寒そうだったけど、いい顔してきたね」



ただそれだけで、老婆は自分を引っ張ってくれたのだろう。



「はい、ありがとうございました!」



優しい気遣いに、また瞼が熱くなった。
老婆の手を握り締めて膝に乗せる。



「あの後、弁慶先生とは上手く行ってるのかい?」

「‥‥‥‥‥‥‥ええっ!?」

「‥‥‥あの弁慶先生が、診察に誰かを連れて来るなんて初めてでねぇ‥‥‥それがまた可愛らしいお嬢さんで、皆安心したんだよ」

「安心、ですか?」



ひた、とゆきの眼を見て、老婆は笑った。



「弁慶先生は、放っておくと何処かに消えていきそうでねぇ。あまり自分を大切になさってないだろうから‥‥‥お嬢さんみたいな人がしっかり捕まえてくれたら安心だね」



どう答えていいのやら。
ゆきは逡巡した。



(いや、恋人なんかじゃないんだけど)



そう言えばいいのだけど、何故か言葉に出来ない。
曖昧に笑って誤魔化した。
以前弁慶がゆきの事を否定しなかったのは、今の自分と同じように困っていたのかもしれない、と思った。

でも、



(うん?でも、これ位の事を丸め込めない人じゃないよね、弁慶さん)



ふと思って、まあいいやと思い直した。
















気が付くと、雨音は止まっていて、すっかり晴れ間が広がっていた。



「ありがとうございました」



見送ってくれた老婆に頭を下げて、手を振った。

河原を上がり、大橋の袂に着く。
何となく帰る気になれなくて、欄干に凭れて集落に住む人を暫く見る事にした。
厳しい生活を強いられている人々。
病に倒れても、医者はおろか薬すら買えずにただ祈るだけの、人達。



そんな彼らを弁慶は無償で診察し、薬を渡す。
他の誰も成さない事を、彼だけが。

‥‥‥どれほど、彼が皆に敬われているのか。
老婆の口振りからも良く分かった。

きっと、ゆきという「彼女」が出来た時に喜んだのは本当のことだろう。

彼女の眼にも弁慶は、あまり自分を大切にしない人に見えるのだから。



(あまりじゃなくて、全然だよね)



時々、彼が危うく見えてしまうのは、気のせいではない筈。


  


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