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弁慶に、邪魔をすると告げてから眠れずにいた朝の事だった。
部屋の戸が僅かに開いていて、差し込む光に気付く。
「朝になっちゃった‥‥‥」
さすがに寝込んでいた身体に、睡魔が重い。
このまま眠ろうか、と思った時に、それは訪れた。
「‥‥‥‥‥‥あっ」
背筋を這う、恐怖。
明らかに、呼んでいる。
ゆきを。
生理的な涙が滲むのを、拳で拭った。
足が竦んで逃げたくなる程に、植え付けられた恐怖は大きい。
それでも、立ち上がった。
(行かなきゃ、ダメなんだ)
いつかは対峙しなければならないのだから。
庭ではリズヴァーンと九郎、そして望美が早朝の稽古をしている気配がする。
濡れ縁を通らなければ外には出られない。
自分の気配は絶たなければ、きっと見つかってしまう。
ゆきは眼を閉じ手印を結ぶ。
九字を唱えると気配を絶てた事を確認して、足音を忍ばせ表へ出た。
邸を出て、暫く歩く。
濃厚な気配を辿れば、人気のない場所に着いた。
目の前の、忘れもしない美女の元へと。
数歩の距離を開けて、足は勝手に止まった。
「もっと近くへいらっしゃい、お嬢さん」
「やっぱり‥‥‥あなただったんですね」
はぁ、と息を吐くと、身体の震えも少しはマシになった気がした。
「‥‥‥北条政子さん」
「あらあら、警戒なさっているのかしら?本当に可愛らしいこと」
鈴を転がす様な笑い声。
その美貌は毒を含んだ花の如く。
見ているだけで、ゆきの背に汗が滲むのを感じた。
怖いけれど、それを表に出さない様に必死で耐える。
「こんな朝早くに呼び出して、私に何の用事なんですか?」
「まぁ、怖い。そんな眼をなさらなくても、今日は何もしませんわ」
「‥‥‥‥‥‥」
信じられる訳がない。
会う度に政子はゆきに何かを仕向けて来たのだから。
一度目は、自分に何か‥‥‥術らしきもの、を施して
二度目の時は、弁慶との会話をゆきに聞かせる様に仕向けたのだから。
「これ以上、あなたに踊らされたくないだけです」
「あら‥‥‥」
政子は一瞬絶句した。
絡む視線。
けれど、添えられる感情は全く異なる。
片方は、怯える本能を必死に押さえ付けていた。
片方は、そんな彼女を愛しいと‥‥‥いっそ優しいと呼べる眼差しで、見つめている。
「本当の事ですのに。今日は良い事をお教えしようと参りましたの」
鞍馬の結界解除に、全ての力を注ぎ込んでしまったゆきは、暫く放心していた。
立ち上がるだけの体力が回復した、と信じてゆっくりと足を踏ん張る。
身体が辛い‥‥‥けど、時間が惜しい。
「師匠、行きましょう」
「仕方ないね。乗りなさい」
郁章が懐から呪符を取り出し、二言。
呪符は白い狛犬に変化した。
「‥‥‥最初からこれに乗ってたら、楽だったのでは‥‥‥?」
「紅葉を眺めての遊山も風流だと、弟子を思う師の心が分からないのかな?」
「‥‥‥わかりませんよ、そんなもん」
疲れは更に、どっと押し寄せた。
にこやかに手招きする師匠に近付き、白い毛並みの獣に跨がる。
ゆきの後ろに郁章も座れば、疾風のように駈け出した。
急がなければ。
時間は限られている。
目指すは未踏の地であろう、山の神の住み処。
‥‥‥そう、数日前に遡る。
政子と会った後のこと。
ゆきはあのまま京邸に帰らずに、一条の土御門邸へ走った。
早朝、しかも突然の来邸。
しかし、出迎えた式も師匠の郁章も顔色ひとつ変えずに、ゆきを受け入れた。
即座に京邸の景時に式を放ち、ゆきを暫く預かる旨を言伝る。
そして何一つ聞かずに、ゆき自身に呪いを施す。
即座に疲れを取る為の眠りに落ちるゆき。
‥‥‥それでも、夢の中でも。
恐ろしい声が同じ事を何度も繰り返す。
『‥‥‥大丈夫ですわ、お嬢さん』
(何が、大丈夫なの)
『今、この京を怨霊が荒らしている事はご存じかしら』
(‥‥‥平家の誰かが操ってるって、リズ先生が)
『そう、平家の者が怨霊を放っているのです‥‥‥お嬢さん』
(それが一体何なの)
『‥‥‥弁慶殿が動くのは、怨霊を操る平家の者を倒した後。
そう話はつけておりますから』
(弁慶さんが動く‥‥‥)
どうして、この人は
わざわざ自分に教えるのだろう。
警戒するゆきの、その頬を両手で包むと上向かせた。
『わたくしも女、殿方に恋する気持ちは痛い程存じております
‥‥‥‥‥‥取り引きをなさいませんこと?ゆきさん』
そして、ゆきは頷いた。
守るって、決めていたから。
ACT31.恋い願う、みち
20080111
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