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「‥‥‥師匠」
「私の弟子はもう根を上げたのかな」
「違いますからね、これくらい平気です」
口調とは裏腹に、札を持つ手が震えていた。
額に浮かぶ汗は、暑さによるものとは違う。
正に、緊張の時間が流れっ放しになっている。
土御門郁章は弟子の様子に慌てるでもなく黙って見ていた。
陰陽術の師であり、安倍晴明の直系の土御門家の次男。
彼の群青の眼に見えるのは何なのだろうか。
「‥‥‥師匠」
「なんだい?」
「‥‥‥っ、弟子を助けてやろうって、気はないですか‥?」
ゆきの唇が怒りで震えるのを見ると、郁章は声を上げて笑った。
「‥‥‥っ!!」
「手を貸して上げるのは簡単だけど、ね」
今、弟子が対峙しているのは、人外の力によって施された結界。
並の人間なら結界の存在すら気付かない。
安倍晴明が存命だった二百年程前ならともかく、この時代の陰陽師でも解けないであろう、強力な力の結晶。
そんなものに敢えてゆきをぶつける理由なら、ある。
「修行だよ、頑張りなさい」
「‥‥‥くっ‥」
怒りで集中が途切れたのか。
結界の反発力が重くのし掛かり、ゆきは一歩退り下がった。
「集中力が足りないね」
「‥‥‥‥‥‥はい」
これは後で苦情が来るな。
‥‥‥郁章は頬を笑みに緩める。
けれど彼の眼は、ひたすらに弟子に注がれていた。
深呼吸を一つ、眼を閉じて。
全てに克つと言われる呪言、尊勝陀羅尼を唱えるゆきを。
「ノマクサマンダ・ボダナン・カロン・ビギラナハン・ソ・ウシュニシャ・ソワカ」
七度目の尊勝陀羅尼でようやく。
結界に亀裂が入ったように‥‥‥カシャン、と音を立てて砕け散った。
「は、はは‥‥‥」
足ががくがく震えてへたりこむ。
「ゆきは何を休んでいるのかな?まだ何も始まってはいないよ」
「‥‥‥お、鬼だ。目の前に鬼がいる」
「失礼だな。私は弟子の君に的確な助言を送っていたつもりだったが」
「‥‥‥も、いいです」
どうせ、この飄々とした男に口では勝てないのだ。
早々に諦めて、差し出された手に捕まり立ち上がる。
鞍馬山の最奥地。
リズヴァーンの庵よりも更に奥の‥‥‥閉ざされた空間。
そこに、目指すモノがある。
行く手を阻む結界は幾年もの年月を支えていたのか、強大だった。
この山に住んでいたリズヴァーンも、徒に手出しをしなかったのであろう。
腕の傷はまだ癒えていない。
それでも、推して来たのは
時間がない、から。
話は数日前に遡る。
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