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腕に収まった華奢な身体からは薬草と、仄かな香が鼻腔を擽った。



ゆきの腕が背中に触れて‥‥‥躊うように止まる。

応えるべく抱き締める力を込めると、ゆきも観念したように弁慶の背に抱き付いた。




今ならば、夢の逢瀬だと割り切れるかもしれない。




ゆきを傷付けた事も

これから彼女を裏切る事も

忘れる事は出来ないけれど、今だけは。



今は‥‥‥。



「‥‥‥‥いっ‥‥」



ゆきが苦痛の呻き声を上げる。
弁慶は、我に返った。
いつの間にか随分と力を込めていた様だ。

彼女が怪我をしている事を、一瞬でも忘れていた自分に気付いた。

力を緩め僅かに身体を離す。


身体が離れたから、それまでしっかりと触れていた部分に出来た隙間を、微かな風が撫でてゆく。
風が、弁慶から愛しい熱を奪う。

それを口惜しく思い、次いでそんな自分を嘲笑った。










ACT31.恋い願う、みち








「弁慶さん‥‥‥?」

「‥‥‥いえ。傷が開いたかも知れませんね。見せて下さい」

「え、っと‥‥大丈夫ですから」


着物を肌蹴て肌を晒す。

そんな恥ずかしい事、出来る訳ない。

弁慶が薬師で、自分は怪我人で。
そして、意識のない間も彼は治療の為に、自分の身体を見ていると知っているけど‥‥‥それでも。



今、これ以上触れられてしまったら、言ってしまうかも知れなくて、怖い。


距離を取ろうと、俯きながら一歩下がる。
このまま引き返そうとして、それが無駄な事だとすぐに気付いた。

正面から伸びた手が、ゆきの左腕‥‥‥厚く巻かれた包帯のすぐ下を掴んだから。



「痛いっ」

「ほら、痛むようですから傷を見せて下さい。化膿でもしたらどうするんですか」

「‥‥‥弁慶さんの、鬼」

「ふふっ、何とでも言って下さって構いませんよ」



痛くて涙目になりながら弁慶を睨み付けた。
尤も、そんな事くらいでどうにかなる彼ではない。
クスクス笑うと、掴み上げた力を緩めた。



「‥‥‥見せて下さいね、ゆき?」

「っ!‥‥‥はい」



(そんな切なそうな眼をするなんて、反則だよ)



ゆきが従わずにおれない事を、きっと解っている。
そうと知って尚、ゆきも聞かずにはおれないのが、惚れた弱味なのだろうか。

仕方なく頷くと、二人で弁慶の部屋へと向かった。


 











室内には燭の明かりがゆらゆらと揺れている。


円座にゆきを座らせて、弁慶はその間に隅にある薬箱を手に取った。
ゆきに眼を向けると仕方なく息を吐き、片袖を脱ぐ。


手早く慣れた手付きでゆきの腕の消毒をし薬を塗り、包帯を巻いて行く眼に、真剣な光。


弁慶は薬師で、治療に専念している。
自分の肌など見ても、邪な気持ちになどなる訳がない。


なのに、羞恥と好きな人に触れられる緊張からか、さっきから心臓が煩い程騒いだ。





‥‥‥夜着とはいえ、胸元に巻いた晒を解かなかった事に、ゆきはほっとした。
普段なら堅苦しい晒など解くが、さすがに誰もいないとはいえ庭に出るのだ。

多少の恥じらいから巻いたままにしていた。



「‥‥‥はい、いいですよ」

「ありがとうございます」



礼を述べ、ゆきはそそくさと着物の袖に腕を通した。

部屋に入った時から、その頬は赤いまま。



顔を上げた弁慶はゆきの表情に気付き、ふっと笑った。



「どうかしたんですか?‥‥‥ゆき」

「なな、何でもないですっ!!」

「そうは見えませんよ‥‥‥顔が赤いから、熱があるのかも知れません」



心配そうに彼女の額に触れると「熱はないようですね」と呟いた。



「あ!あ、ありませんからっ!!大丈夫!」

「でも」

「ないったらないですから!あ、ありがとうございました!!」



夜中なのに大きな声を上げて、ゆきは立ち上がる。
恥ずかしくて、今すぐにも部屋に帰ろうと踵を返して、数歩。


ゆきは戸口で立ち止まると、静かに笑いを堪えている弁慶を振り返った。



「弁慶さん」

「はい?」



眼を上げた弁慶は、ゆきが真剣な表情を浮かべている事に気付く。



「私、邪魔をします」

「‥‥‥それは、先日の僕の言葉に対してですか?」

「はい」



静かな問いに、静かに答える。

互いに望美の名を口にしないのは、夜更けとはいえ他者の耳を気にしているから。
何処で誰が聞いているのか、分からない。



だが、弁慶はふと気付く。



「‥‥‥それなら、僕が考えている事を皆に話した方が早いでしょう?」



弁慶の問い掛けに一瞬だけゆきは泣きそうな顔をした。
一瞬だけ、確かに。




「‥‥‥弁慶さんは何も分かってない‥‥」

「‥‥‥何も?」





さっきまで浮かべていた微笑を消した弁慶が、いつかの彼と重なった。
冷たい眼。
悲しくて、泣きそうになる。




「‥‥‥弁慶さんは、私を何度も助けてくれたから‥‥」



誰よりも、大切だから



「私が、私の全てで、弁慶さんの為に邪魔するの。望美ちゃんをあなたにはあげないから」



すっと細まった彼の眼をこれ以上見るのが辛くて、ゆきは部屋を飛び出した。
追って来る気配もない。



「分かっていないのは、君の方だ‥‥‥」



弁慶の独白は、闇に紛れて消えた。















(言いたい事は、言えたよ)



相変わらず、眼裏に涙の気配。
宣戦布告はしてしまった。

きっと弁慶は、望美を無闇に狙わないだろう。
油断は許されない。
そして、ゆきは修行すると決めたから、望美と離れてしまう事になる。


‥‥‥いっそ修行を辞めようか、と思って首を降った。



辿り着いた自分の部屋。
へなへなと入り口に座り込むと、床に手を突いた。



(泣いてる暇なんて、ないんだ)



自分がいない間に望美を守る為にはどうすればいいのか。

必死に頭を巡らせる。

それでも泣きそうになって、ゆきは必死で首を振った。








‥‥‥もう、泣かない。
強くならなければ、いけないから。






いつの間にか室内に、朝の光が差し込んでいた。






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