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「‥‥あっ!!」
「なんだ?」
暫く黙っていたかと思えば、突然声を上げて立ち上がるゆきに、九郎は目を顰めた。
「九郎さん!私、催して来たので、どっかの木陰へ行って来ます!!」
「お、おい!!」
源氏の陣中で、大声で婦女子らしからぬ事を叫んで、ゆきは全速力で走り出していった。
呆れた九郎だったが、そういえば、と思い直す。
(雨乞いの時も同じ様な事があったな)
ともかく、戦場に女が一人では危ない。
大将の自分が出向く訳にはいかないので、代わりの兵をゆきの消えた方へと差し向けた。
夜の森は静寂に包まれている。
気配を殺し歩く重衡は、先程会った少女の事を思い出していた。
最期に出会うのが源氏の軍であれば‥‥‥平家の名に恥じぬように、華々しい死に様を。
‥‥そう願った重衡が出会ったのは、
昔、六波羅で夢の様な逢瀬を交わした『十六夜の君』だった。
『逃げて!重衡さん!』
必死に懇願する彼女の姿が、幾度か会った陰陽師の少女と重なって見えた。
自分の思いが何処にあったのか。
この時点で初めて気付いてしまった重衡は苦笑する。
もう思い残す事はない。
そう思っていたのに
「重衡さん!!」
まさかゆき本人と、こんな所で会うとは‥‥。
「―――ゆきさん?」
「ここがどこか分からないんですかっ!?」
見た事のない位、必死の形相のゆきが走ってくる。
春の雨乞いの時の様に、自分の気を辿って真っ直ぐ来たのだろう。
着物にも頭にも枝やら葉やらくっつけていた。
せっかくの愛らしい顔が、葉の汁と擦り傷で汚れている。
その姿が彼女らしくて、こんな時なのに微笑んでしまう。
「‥‥‥また、転びますよ」
「そんなのどうだっていい!この近くは源氏の陣なんだよ!」
「ええ。知ってますよ」
「重衡さんっ!!」
「‥‥‥ゆきさんは、私といてはいけません。早く逃げて下さい」
「何言って――」
「私は敵ですから」
「───っ」
絶句するゆきを前に、重衡は微笑む。
あまりにも透明なその笑顔に、ゆきは不安を覚えた。
「私の事ならもういいのです」
「‥‥‥は?」
「もう、いいのですよ。ゆきさん」
「‥‥‥重衡さんっ!!」
ゆきの怒声と乾いた音がしたのは同時だった。
頬に熱が走る。
‥‥手を出したのはゆきなのに。
今、泣きそうに顔を歪めているのもゆきだった。
一方の重衡は、晴れた青空のような眼をしている。
全てを包み、溶かしてしまうような眼差しで、ゆきを見ていた。
「‥‥重衡さん、約束してくれたじゃないですか。また会いましょう、って」
「ええ‥‥‥ですから、この様に」
「違う!私が願ったのは!!こんな所じゃなくて!!」
――戦が終わって、何の屈託もなく会いたい――
「‥‥っ!‥‥‥‥」
でも、戦が終わるには源氏か平家、どちらかの『滅亡』しかない。
初めてちゃんと気付いてしまった。
自分の願いなんて、ただの夢物語でしかないのだと。
(そうだった、どちらかが滅ぶしか、道はないんだ‥‥)
勿論、ゆきは九郎達の『家族』で、何より彼らが大切だ。
力を得て彼らを守りたいと思う程だから、源氏を滅ばす訳にはいかない。
と言う事は、平家が滅ぶしかない。
そして重衡も、恐らくは将臣も平家の武将だ。
捕まれば‥‥。
「‥‥‥いや‥」
どうして、今までちゃんと考えなかったのだろう。
九郎達の武運を祈りながら、重衡と将臣の無事を祈るという、矛盾に。
愕然としたゆきの目からは涙が溢れている。
「それでも、私は‥‥‥!」
――生きて、また会いたい。
「重衡さん‥‥!」
ゆきは何を言えば伝わるのか、もう解らなくなった。
堪らず、重衡に縋り付く。
「死んじゃだめ‥‥」
しゃくりあげながら何度も繰り返すゆきの背を、重衡は優しく撫でた。
澄み切った青空の如く曇りない瞳。
もう、覚悟しているからだと言う事に、ゆきは気付いてしまった。
‥‥‥もう、自分には止められないのだと。
「‥‥‥死なないで」
ゆきの懇願に答える事なく。
重衡は黙って、ゆきの体をきつく抱き締めた。
「ゆきさん‥‥」
暫く経った頃、彼女の肩を優しく押し退ける。
踵を返して歩き出す重衡を、ゆきは呼び止めた。
「‥重衡さん」
「ゆきさん、貴女が好きでした」
「え‥?」
「貴女の笑顔が大好きでしたよ、ゆきさん」
最後に一度振り向いた彼は、極上の笑顔を浮かべていた。
それが別れの挨拶なのだと、気付いてしまったのに‥‥‥
ゆきは追う事が出来なかった。
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