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庭の真ん中、仄かに黄色い上弦の月の下に、弁慶が佇んでいた。
声を掛けた望美に振り返り、穏やかに微笑う。
「望美さんも眠れないのですか?」
「‥‥‥はい。弁慶さんも?」
弁慶は小さく頷いて、再び月を眺めた。
隣に行っても構わないと判断して、望美は裸足で庭に降りる。
「僕に何か聞きに来たのでしょう?」
「そんな風に見えました?」
「分かりやすいですからね、望美さんも」
―――彼女と同じで。
言外にそんな想いが込められていると感じるのは、望美の気のせいか。
いつもの黒い外套に覆われて、月を見上げたままの弁慶は、何だか儚くて‥‥‥。
望美は余計な事を口走りそうになるのを堪えた。
沈黙が流れる。
そして、その時間を終わらせるのは、望美。
「弁慶さん、ゆきちゃんに何をしたの?」
「‥‥‥‥‥随分と率直な質問ですね」
呆れた眼で弁慶は答えた。
その視線を真っ直ぐに捉えたまま、望美は眼差しに力を込める。
ここで眼を逸らしては、後々後悔するだろうから。
「まるで嫉妬しているみたいですよ、望美さん」
「‥‥‥そう取ってくれても構いません」
少しばかり棘のある声で答えて、望美は弁慶の腕を掴んだ。
その細い指先に、弁慶は視線を落とし、一度だけ喉を鳴らす。
「そう取ってくれても、ですか‥‥‥‥面白い、事を言いますね」
「‥‥‥っ!」
面白い、の部分に力を込めて返せば、案の定真っ赤になる望美に、弁慶は小さく笑った。
望美の手を取り、自分から引き剥がして、事も無げに告げる。
「傷心のゆきさんに、少しばかりつけ込んだだけですよ」
ただ、それだけだと。
いとも簡単に言ってのける男に、望美はかぁっと怒りが込み上げた。
「つけ込んだって‥‥‥最低じゃないですか!!」
「そうでしょうね」
「そうでしょうねって弁慶さん!!ゆきちゃんの気持ちを考え」
「では君はどうなんですか?」
「‥‥‥え?」
感情のままに吐き出そうとする望美の腕を掴み、引き寄せる。
一歩前へ踏み出した、望美の顎を捉えて上向かせると、視線がぶつかりそうな至近距離。
自分を見る弁慶の眼は、醒めた月のようだった。
「ゆきさんと譲くんの気持ちも知っていて、僕にそんな事を聞く君は?」
「‥‥‥‥」
「僕がさっき、『傷心の彼女』と言った時、君はその理由が判っていた。違いますか?」
「っ‥‥‥‥」
唇を噛み締めて俯く望美を見て、弁慶は顎から手を離した。
かっとなった自分が、少し情けない。
「‥‥‥すみません。つい、言い過ぎてしまいましたね」
「‥‥大丈夫です」
「では、僕はもう休みます。明日は早いですから、君も寝た方がいいですよ」
そう言って、弁慶は背を向けて歩き出す。
(あ‥‥)
望美は彼の名を呼ぼうとする。
だが、声がでない。
その代わりに、伸ばした右手で外套の裾を掴む。
「‥‥‥まだ何か?」
「教えて。ゆきちゃんの事、好きなんですか?」
「‥‥全く、君といい、ヒノエといい‥‥‥」
呆れた様に呟いた後、肩越しに振り向いた、その眼は。
「僕はゆきさんに恋をしてはいません。先日の事も出来心で、した事ですし」
苛立ちを帯びていた。
今度こそ、弁慶は邸の中へゆっくりと歩いていった。
「‥‥‥‥‥」
夜半に上着も纏わずに庭へ出るのは、身体を芯まで冷やす行為だと、ふと望美は思った。
しかも、裸足で。
さっきは夢中で弁慶の元へ向かったから気付かなかったが。
「‥‥‥ごめんね、ゆきちゃん」
身体が震えるのは、冷えたからか、それとも‥‥‥。
自らの身体をぎゅっと抱き締めた。
もう、廻り始めてしまった。
何もかも。
弁慶が立ち去る少し前、廊下を走る小さな足音に、弁慶も望美も気付いていなかった。
(なんだ、そうだったんだ)
さっき見た二人の影が焼き付いて離れない。
(からかわれてたんだ、私)
女性に困らない弁慶。
彼が自分の様な小娘を、まともに相手するはずないのに。
(私ひとりでドキドキして、損した)
廊下にいるゆきからは、二人の影が重なって見えた。
(もう、悩まなくていいじゃない)
部屋に戻ったゆきは、ふっと笑った。
指先は、無意識に唇を撫でていた。
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