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「泰衡!泰衡ってば!」
「‥‥‥煩い女だな。聞こえている」
「だったらさっさと返事してよね!」
腰に手を宛て、部屋の戸口で仁王立ちの遙香を振り返り、泰衡は深く息をついた。
朝日を背に毅然と立つ遙香は眼を奪われるほど美しい。
一瞬、筆を止めてしまった泰衡だが、何事もなかったかの様に再び机上に視線を戻す。
「俺は忙しい。用があるなら早く言え」
「‥‥‥‥‥‥高館に来てるんでしょう?」
返事の前に溜め息をもうひとつ。
『誰が』などと確認するまでもない。
「ああ、白龍の神子と共にな」
「白龍の神子‥‥‥許嫁がいるって言う噂は本当だったのね」
「くだらん。噂などに惑わされるお前など、馬鹿としか思えん」
どちらかと言えば、馬鹿にしたつもりの発言だった。
決して励ましたつもりではない。
それで諦めてくれたら‥‥‥との泰衡の密かな希望は、意図も容易く覆される。
「そうだね!本人に聞くのが一番よね!」
‥‥‥そうだった。
この幼馴染みは九郎並の鈍さと、更にどこまでも前向きな思考を持ち合わせているのだ。
それらの足りない泰衡の分を補う程。
泰衡は深い溜め息を吐くと、筆を筆置きに仕舞った。
立ち上がる衣擦れの音。
「‥‥‥行くぞ」
「うん!!」
嬉しそうに笑う遙香。
無愛想で、口を開けば辛辣で、いつも怒っているように見えるけれど
幼き頃より見て来た遙香は知っている。
この仏頂面した年上の幼馴染みが、本当は優しくて甘い事を。
特に自分に対して、大概の我儘は結局叶えてくれる。
これだから、どんなに縁談が来ようとも、親に泣かれようとも
‥‥‥彼を諦められないのだ。
「‥‥‥もうすぐ雪の季節ね」
「見れば判る」
地面に散った楓の葉を踏むさくさくと言う音を、楽しみながら遙香は歩く。
「雪、かぁ‥‥‥‥‥‥あ!」
目指す姿は高館の外で刀の鍛練をしていた。
遙香は数年振りに会う九郎に向かい、手を振った。
「九郎っ!!」
振り向いた九郎も顔を綻ばせる。
「遙香か!久しいな!」
返事を受けて走り出そうとする遙香の腕を、後ろから思い切り引かれる。
よろめいた身体を抱く彼を、びっくりして見上げた。
「‥‥‥やすひら?」
「一人で行くな。
・・・・・・俺と共に居ろ」
耳元に吹き掛けられる、引い囁き声。
「泰衡?声がいつもと違うよ」
「煩い・・・お前が九郎の元へ行くなどと・・・・・・」
言い掛けて、顔を逸らす泰衡の横顔が仄かに染まっていた。
初めて聞いた声音
「泰衡、顔が赤い・・・」
「・・・下らん。行くぞ」
そう言いながら、抱き締めた腕は離さない。
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