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平家の門前に倒れていた私を、貴方が救ってくれたあの日。
そうそれは、経正に出会った、あの日‥‥。
あの日も雨が降っていた。
『ああ、こんなに身体を冷やして。怪我もしておりますね』
制服姿で三日三晩、当てもなく歩き通して。
山道をさ迷った疲労と傷だらけの身体は、更に濡れてボロボロだった。
そんな遙香に躊躇うことなく手を伸ばし、抱き上げてくれたのは経正。
『女人の身でさぞ辛かったでしょう‥‥‥もう、大丈夫ですよ』
触れ合えたのはあの時だけしかなくて。
あの日からずっと雨が愛しい。
あの腕を思い出させてくれる、雨が。
「遙香殿?」
「あ、ボーっとしてました。すみません」
慌てて頭を下げれば、経正が小さく吹き出した。
‥‥‥この人のどこが、あの恐ろしい怨霊と同じなのだろう。
生前ときっと、何ら変わらぬ筈の優しさ。
なのに、清盛や将臣は彼を怨霊だと言う。
そして、本人も。
「ひゃっ」
ぴちゃ、と冷たい感触。
雨粒が額に落ちた。
「濡れてしまいましたね」
苦笑しながら袖で遙香の顔を拭おうとしてくれたのに。
‥‥‥次の瞬間ハッと我に返って、その手を引っ込めてしまう。
いつも、いつも。
触れそうになるたびに、触れたくなるたびに、
経正は困った顔で笑っていた。
「すみません。遙香殿に触れる資格はないのに」
と伏せた眼で‥‥‥そっと身を引く。
それを、遙香がどんなにもったいなく思うか、彼はきっと知らないだろう。
本当は雨音でなく、経正に包まれたいのに。
苦しさを吐き出す術が見つからないまま、涙がつぅ、と頬を伝い落ちた。
‥‥‥遙香の眼から零れる雫に、経正は瞠目する。
「遙香殿!?」
「ごめんなさい。何でも‥‥‥何でも、ないんです」
当の遙香も予想すらしていなかったのだろう。
驚いたように手の甲で目元を拭いながら、必死に唇の端を持ち上げて。
心配させぬ様笑おうとする姿に、経正の身体の一部が苦を訴えた。
かつて生命の鼓動を刻んでいた場所が、つきりと痛む。
一瞬の眩暈を覚える衝動。
何もかもを忘れて、それでも力余って壊さぬように、正面からそっと抱き寄せた。
「‥‥‥‥え?」
突き放さなければならぬのに、誰かが彼女の涙を拭うのかと考えるだけで、くらりと視界が闇に染まる。
「私は、卑怯です。貴女に触れる資格がないと知りながら、触れたいと思ってしまいます」
苦しい心情を吐露すれば、遙香がきっ、と顔を上げた。
「‥‥‥経正さん、前からずっと思ってたんですけど」
すぅ、と大きく息を吸って、そして怒り出す彼女に今度は呆然とする。
「何で触れる資格がないと言うんですか!」
「‥‥それは私が死人だからですよ」
「それが何だって言うんですか!怨霊?そんなの最初から知ってます!!どうだっていいでしょうそんな事!!だってそれでも私は‥‥っ!!」
遙香が我に返って、口を閉ざす。
今、何と言いかけたのだ、自分は。
勢い余ってずっと胸に秘めた想いを告白するところだった。
‥‥‥が、時既に遅し。
「『それでも私は』‥‥‥何と続けるおつもりだったのでしょうか?」
しっかりと、聞き返されたしまった。
「遙香殿。貴女は、私が怨霊でも気にしない、と。そう仰ってくださいましたね」
「‥‥‥はい」
自分は怨霊で、彼女は人間で
踏み越えられぬ境界線。
そう諦めていたのに。
「では、その続きは‥‥私が望む言葉と、同じでしょうか?」
「‥経正さん?それはどう言う意味‥‥?」
壁は意図も簡単に壊されて。否、互いに遠回りした挙句に、遙香が壊してくれた。
「遙香殿も、私と同じ気持ちを抱いているのでしょうか?」
心の臓など持たぬというのに。
どくどくと鼓動が跳ねるようなあの、新鮮で期待に満ちた感覚を覚える。
抱き締めている腕が緊張で震え、それを隠すべく力を込めた。
「‥‥‥経正さんも、私と同じ様に思ってくれるんですか?」
「どうでしょうか。私と同じなら遙香殿は‥‥‥‥」
怨霊と人間と。
きっとこれから苦労するのかもしれない。
弊害など山のようにあるけれど。
「私と同じなら遙香殿は、四六時中触れていたいほど私を愛している事に、なりますが」
どうでしょうか。
再び問えば、俯く愛しい人の耳まで紅く染まっていた。
「お‥‥‥同じ、です」
顔を見合わせて、ふふっと笑って、唇を重ねて。
互いの温度を心行くまで堪能した、それは始まりの日。
しとしとと
雨は愛しい音を、今日も奏でる。
経正祭(笑)提出作品
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