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雨の中走った。


無我夢中で。




「那、智の滝?」


たどり着いたのは何て事ない、今朝来た滝だった。




‥‥もう、走れない。
ここにいれば嫌でも思い出すのに。



「ヒノエくんの‥‥‥」



馬鹿。



言い掛けて、ふっと笑いが込み上げる。


ううん、本当は分かってる。

馬鹿なのは、全て忘れてしまった私のほう。






雨音と滝の音はどちらも激しくて、私の声を消してくれた。



頬を伝うものが、雨なのか

涙なのかも解らない。





雨も、滝も、存在を主張するかのように
激しく打ち付ける。










好きだって気付いた瞬間に、解ったことがひとつ。


‥‥‥失った記憶の私も、きっと好きだったのだと。










「ヒノエくん‥‥‥」


呟きは雨の音に消えていった。




  



降り続く雨が
ほてった身体を冷ましていく。






「夢中で飛び出したけど、帰りたくない‥‥」



雨具も無しで飛び出してしまった。


ずぶ濡れで帰ったら、きっと色々と心配をかけてしまう。





ただでさえ記憶のない私は
腫れ物のように扱われているのに。



「‥‥でも、帰らないともっと心配かけてしまうから‥‥‥」


そろそろ帰ろうかな。




ヒノエくんには、

「意地悪な聞き方されて、気が動転した」

って言っておこう。







本心は決して言えないから。







一度、大きく深呼吸をして帰ろうと決意した私の耳に、バシャバシャと水を弾く足音が聞こえた。



「風花!」


「‥‥‥‥え‥‥」


続いて聞こえた声に驚く事すら忘れて、呆然と見た。

彼が走ってくる。



雨の音が大きくて、こんなに近付くまで気付かなかったなんて。




「‥‥ヒノエ、くん?」


「さっきのは‥‥‥‥て、おい!!」






私はまた走り出した。




何で来るの。

追いかけて来ないでよ。






こんな風に不意打で来たら、平気な顔作れない。



醜く歪んだ顔、
見られたくなんてないのに。











だけど女の足では逃げ切れる訳なくて、簡単に腕を掴まれた。

そのまま、縫い止めるようにヒノエくんの手は、私の肩に。



「何してるんだよ。
‥‥‥そんなに逃げるのが楽しいわけ?」

「‥‥‥離して」




肩を掴むヒノエくんの手が痛い。



「イヤだね。離さない」


「もう放っておいてよ!!」




これ以上掻き回さないで。




「さっきはああ言ったけど昼間は 「そんな事はもういいの」




これ以上混乱させないで。




「よくないだろ。お前はいつも 「ねぇヒノエくん!」



私は、ヒノエくんの言葉を無理矢理遮った。






彼の話はもう聞きたくなかった。

これ以上泣きたくなんてない。




  




雨で良かったな。


頬を伝うものが涙か雨か、バレずに済む。







口からは、塞き止めたかった想いが、今にも溢れてしまいそうになっていた。





「‥‥‥今の私は、ヒノエくんが知ってる私じゃないの」



言いながら、黙って話を聞いている彼の眼を見た。



「こっちに来てからの事、私は何も覚えてない」

「‥‥あぁ、知ってる」

「何をしていたのか皆知ってるのに、自分だけが知らないなんて‥‥」

「風花‥‥」




何と言えば伝わるのだろう。
言葉にするのが難しい。





ふと気付けば、雨は小降りになっていた。




「何をしてたのか、何を考えていたのか‥‥‥‥解らないのは、怖いの」

「‥‥‥‥‥」

「なのに‥‥‥‥」









『あなたを好きになってしまった』

言葉は喉まで溢れてきて、けれども必死に蓋をする。


代わりにもうひとつの言葉を口にした。





「どうしても、思い出せない‥‥ごめんなさい」


記憶を無くしたと知った時の、彼の瞳が忘れられない。




「‥‥‥いいんだ風花‥‥オレの方こそ悪かったね」

「・・・え?」

「お前が一番辛いって事、解らなかった訳じゃないのに・・・・・・焦ったみたいだからさ」


言いにくそうに、皮肉っぽく笑うヒノエくんを見て、胸がぎゅっと締め付けられる。


何て正直なんだろう、私の心臓ってば。





好きだと気付いた途端、彼の些細な表情にすら激しく脈打つ。









そんな私の頬をゆっくりと撫でて、ヒノエくんははぁ〜っと息を吐いた。


「‥‥昼間のアレはわざとだよ」

「昼間のアレって?‥‥‥‥‥‥あ」






脳裏には女の人と、ヒノエくんの姿。

また少し、胸が痛む。


それにしても、わざととは一体どういう事なの。






「‥‥‥‥」

「‥‥‥昼間、将臣と那智の滝にいただろ?」

「?うん。望美と譲もいたけど?」

「将臣に嫉妬したからって言ったら、姫君はどうする?」











将臣に嫉妬って‥‥それって。









かぁっと赤くなった私に、ヒノエくんはフッと笑って

掠めるだけのキスをしてきた。



 



あぁ、顔に熱が集中してるのがわかる。



「なっなっ何を‥‥」


「ははっ赤くなって可愛いね。

‥‥‥‥‥まぁいいか。風花は、ここにいるから」


「ヒノエくん?」






「無理に思い出さなくてもいいってこと。

お前は記憶なんてあっても無くても、オレに惚れる運命なんだぜ」







そう言ってニヤッと笑う彼が可愛くて、笑いが込み上げた。




「ぷっ‥ふふふっ
自信満々なんだから」


「へぇ、本気にしてないんだ。
じゃぁ見てな、風花。そのうちオレが恋しくなるからね」









自信たっぷりな所がきっと、彼らしいのだと思う。



格好良くて自信家で、熊野を愛していて。きっと何でも器用にこなせる。
それはきっと、見えない所で誰より努力してるから。

そして女の子に弱くて、「姫君」と優しく呼び掛ける。


地位も顔も良くて、優しいだなんて。

こんな人、放っておく女なんていない。







惚れるには、厄介な人。














「すっかり遅くなっちゃったね。真っ暗‥‥」

「怖いかい風花?」

「ううん。ヒノエくんがいるから怖くないわ」

「へぇ。嬉しい事を言ってくれるね」

「だってここは熊野だもの。庭みたいなものでしょう。ね、別当殿?」

「‥‥そう返してくるかよ」





いつの間にか雨は止んで、まっさらな月がやんわり光る。


暗くても、彼には道が見えているみたいで、しっかりと手を引いて先を歩いてくれている。

びしょ濡れなのに、繋いだ手から温もりがくるようで
不思議と不快感はなかった。








ヒノエくんか‥
ライバルの『姫君』が多いよね。


なんて思いながら、ここに来て初めて安らいだ気持ちになれた。







『お前は記憶なんてあっても無くても、オレに惚れる運命なんだぜ』







本当にそんな運命もあるかもって思うと、気が楽になった。

記憶なんてあっても無くても、私は私。








きっとあなたに会うために

私はここに来たの。






 



   
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