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あれから数日がたった。
他の八葉の人達、白龍や朔を紹介して貰い、驚く彼らにヒノエくんや譲が事情を説明してくれた。
望美達、とりわけ望美と朔が色々と手助けしてくれるから、この世界にも随分慣れた。
何より、記憶はないけど体が覚えているみたいで。
火のおこし方から着物の着付け、日常に至るまで特に苦労はしなかった。
「暑いから外に出てくるね」
「俺が付いて行きましょうか?」
「前で涼むだけだから、大丈夫」
「くれぐれも迷子にならないで下さいよ、風花さん!」
「は〜い」
心配そうな譲に笑いかけて、宿の外に出た。
「ヒノエくん」
宿を出たすぐの所に、腰を掛けるような大きめの石があって、ヒノエくんが浅く座っていた。
片膝を手で軽く抱えて腰掛けながら、こちらを見る姿にやっぱりドキドキしてしまう。
「姫君。夜の散歩かい?」
「うん。暑かったから‥‥」
「そっか」
何でヒノエくんを見るだけでうるさくなるんだろう、私の心臓ってば。
ヒノエくんは、腰掛けてた石を蹴って、軽く跳び、私の前に着地した。
「海を見に行かないかい、風花?」
「今から?」
「夜の海も綺麗だぜ?」
「‥‥行ってみようかな」
夜の海を見てみたい。
私の時代の鎌倉の海しか知らないのも、勿体ないし。
そんな事を思って頷いた。
「ちょっと待ってな。出かけるって言ってくる」
ヒノエくんは宿の中へと消えていった。
。
夜の海なんて真っ暗なだけだと思ったのに、
月と星の明かりが仄かに海の輪郭を照らしている。
星空がこんなに綺麗だから
海がこんなに豊かだから
涙が出てきそうになる。
「ほんとに、綺麗ね」
「‥‥‥‥風花」
「なに、ヒノエくん」
海から顔を上げると、こちらをじっと見ている緋色の眼と、視線がぶつかった。
「もう一度、オレの名前を名乗っとくよ。誰にも内緒だぜ?」
「‥‥内緒?私だけが聞いていいの?」
「お前には、一度名乗ってるからね。何か思い出すかもしれないだろ?」
口調は軽いのに、繋いだ手をぎゅっと握る彼は、緊張しているみたいだった。
こくんと頷くと、彼はニヤッと笑って言った。
「オレは熊野の別当、藤原湛増」
「ふじわらの、たんぞう‥‥‥」
『藤原湛増?凄い名前ね!』
弾けるように笑う声。
『お前ね‥‥笑いすぎ!』
呆れているようで、何処か楽しげな声。
「‥‥あ‥」
『熊野の別当を‥‥』
聞き覚えのあり過ぎる、固い声。
「‥‥‥何か思い出したか、風花?」
声がね、聞こえたの。
私の声が。
あなたの声が。
。
けれど一瞬の出来事に、それが真実だったのか自信が持てなくて。
「ごめんなさい、わからない」
と首を振った。
「気にしなくていいよ、風花」
そう言って、肩越しに流し目で振り返るヒノエくんは、凶器。
私の胸が早鐘を鳴らす。
それから、二人で海を眺めていた。
ごめんね、とか、ありがとう、とか
言葉が喉まで上がるのに
この空気を崩したくなかったから、
黙って海と星と月を、眺めていた。
あの声は、目の前のヒノエくんのものだろうか。
そして、私のものなのか。
そうだとしたら、一体彼と私の間に何があったのだろう。
私はそれを、どうしても知りたい。
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