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「‥‥どの、将臣殿」
「‥‥‥あ」
「将臣殿、一体どうなさったのです?」
「‥‥いえ。すみません、尼御前」
清盛の正室で、一門の中で最も尊く慈悲深い尼御前。
我に返った俺を心配そうに上座から見ていた。
「お顔の色が優れませんね、疲れているのでは?」
「いえ‥‥‥、そうかもしれません」
母のような眼差しで見られれば素直に言葉が出てきた。
一時は世の総てを掌握したと言われた清盛の、北の方なのだ。
もっと居丈高に振舞ってもおかしくないのに、この方は慈愛に満ち、そして「話が分かる」数少ない一門の一人だった。
尼御前はバツの悪そうな俺を見てクスっと笑った。
「今度は私もお会いさせて下さいませんか」
「‥‥は?」
「還内府殿に寵愛を受けているお嬢さんの事ですよ。とても可愛らしい方だと経正殿が言っておりました」
「ったく、経正のヤツ‥」
「北の方になるのでしたら、私にとっても義理の娘となりますものね」
もともと俺にそっくりな‥‥いや、俺がそっくりなんだが、早逝した小松内府平重盛と尼御前には血の繋がりはない。
最初の正室と清盛の間に出来た息子が重盛だから。
そして彼女は、俺が重盛でないことも正しく分かっている。
清盛のように怨霊でもなければ、頭が混乱しているわけでもない。
実の息子でない上に、偽者の俺。
尼御前はその上で、ゆきを義理の娘だと言ってくれている。
つまりは、俺を「息子」だと遠回しに。
この方の聡明で慈愛深い所が、俺を平家の為に走らせる要因の一つになるんだろう。
どこか母を感じさせる方だから。
「今までどれ程勧められても決して北の方を迎えようとしなかったのは、そのお嬢さんの為なのだと、女房たちは噂しておりますよ」
顔もろくに覚えちゃいない、女房達が俺のことを正しく理解している。
なのに、たった一人にだけ通じないのは皮肉だった。
肯定を口にしようとした時だった。
遠くから悲鳴が聞こえたのは。
「‥‥い、やぁぁぁぁ!!」
悲痛な叫び声は、聞き覚えがあった。
「今のは‥‥」
「ゆきっ!?‥‥すみません、尼御前」
退出の挨拶もそこそこに、立ち上がる俺に何か思うところがあったのだろう。
咎める事無く眼差しで許可してくれた。
それを見届けるのも惜しいほど気の急いていた俺は、視界の片隅で認めると尼御前の私室を飛び出した。
狭いとはいえない雪見御所の中を、何故か迷うことがなかった。
ゆきが今何処にいるのか分からない筈なのに、導かれるように走る足が止まることがなく。
建物同士を結ぶ回廊に差し掛かった所で、見慣れた明るい色合いの着物を見つけた。
廊の隅でしゃがみこんでるゆきと、正面に立ちゆきを見下ろす男。
そして、庭から廊に座り込んでるゆきに声をかけている、経正と。
全員よく知る人物で、一体何をしてこうなったのか。
一瞬頭を過ぎったが、そんなことはどうでもよくなった。
ゆきが、怯えていたから。
「ゆき!?」
「‥‥‥っ」
経正が気遣うようにゆきの肩に手を置いた瞬間、俺はその名前を呼んだ。
声に弾けるように顔を上げた顔は真っ青で血の気がない。
「どうしたんだ?」
「ま、さおみくん‥‥」
俺が近づくとゆきの眼から涙が零れる。
あと一歩の距離を残して立ち止まれば、ゆきから腕を伸ばしてきた。
「将臣くん‥‥っ」
「ゆき?」
伸ばされた腕を掴み引っ張り上げて、立たせる。
そのまま抱き締めれば、震える身体で強くしがみついて来た。
コイツにとって「優しい人」の経正など見向きもせずに、俺だけをその眼に映して。
「‥‥‥どうした?」
訊ねる声も、自然と優しいものになる。
腕の中で黙って首を振る全身が小刻みに震えている事に驚いた。
その怯え方は尋常ではない。
俺の前ですら、ここまで怯えたことがない位だ。
俺が側にいる。
安心させるように背を撫でてやりながらきつく抱き締めた。
と同時に、眼の前で退屈そうに欠伸をする知盛を睨みつける。
「‥‥‥知盛。お前、ゆきに何をした?」
「ああ‥‥この女は、有川のモノか」
「御託はいいから言え。コイツに何をしたんだ?」
「さぁな‥‥‥なんなら力で聞き出す、か‥?」
ふん、と鼻を鳴らし唇の端でニヤッと知盛が笑うのを見て、頭に血が上りかけた。
実際、両手が空いていたら斬りかかっていたのかも知れない。
それ程の怒りが渦を巻く。
「知盛殿」
そんな俺の表情に気付いたのか。
経正が知盛を嗜めるように腕を押さえると、チッと舌打ちが聞こえた。
「俺は‥‥このお嬢さんに声を掛けただけだがな‥」
「私も悲鳴を聞いてすぐに気付いたんですが、知盛殿は特にゆき殿には触れておりません」
嘘を言ってるようには思えない。
けど、それだけにしてはゆきのこの怯え方が納得いかない。
問い詰めてでも、何があったのか聞き出したかった。
‥‥‥それでも、追求するよりはここからコイツを離れさせてやるべきだと判断する。
安心させてやるべきだと。
「ゆき、部屋まで歩けるか?」
「‥うん」
‥‥これは運んだ方が早いか。
頼りない返事を聞いて、即座に抱き上げる。
「えっ‥」
「無理すんな」
驚く栗色と、視線が絡む。
安心させるように笑ってやると、
ゆきの眼がほっとしたように和んだのは
‥‥‥気のせいだ。
「‥‥‥‥その女‥?」
何かを思い出したような知盛の声に一瞬気を削がれそうになるも、そのまま踵を返して俺は歩き出した。
あいつを問い詰めるのは後でいい。
「もう大丈夫だ、ゆき。俺がいる」
「‥‥‥‥‥‥うん」
腕に力を込め抱えなおすと、胸に頭を預けてくる。
安心しきったように。
気のせいだ、そんなのは。
俺自身、ゆきにとって略奪者。
散々泣かせておいて、今さら愛されるとは思っていない。
それでも、今だけでも。
俺に頼るゆきが愛しくて
守りたいと心底思った。
Believe in Him
縋る様に
※「大地の陽」とあわせてご覧になれば、分かりやすいかと思われます。
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