束の間でいい。


互いに終わった恋を忘れられるまで、利用しあう。


そこにあったのは愛でなく、恋でなく



‥‥‥契約。







【04. 指切りの代わりにキス】












「どうしたの?彼氏と喧嘩でもした?」

『‥‥あのねぇ。奈々があれからメールもしてこないから気になってるんでしょうが』

「あ‥‥ごめん、色々と忙しくて」



帰宅と同時に着信を告げる携帯。

冷たい機械越しに聞こえる親友の声は暖かく、あれから心配をしてくれた事が嬉しかった。
私の性格を熟知している亜美だから、気を使わせないようある程度放って置いてくれた事にも。



「うん。まぁ何とか整理つけていけそう。新しく担当になった企画が忙しくて、思い出してばかりいられないし」




だから、精一杯の‥‥‥嘘を吐く。





『そっか‥‥‥ねぇ、奈々の会社にいたよね?』

「は?何が」

『ほら、前に会社前で待ち合わせた時見たじゃない!めちゃくちゃ恰好良い人!』



突然花が散りばめられた亜美の言葉に記憶を辿る。

残業の私に合わせて、亜美が待ち合わせ場所を会社前にしてくれたのは‥‥二ヶ月程前だったか。





見透かされた気がして、心臓が音を立てる。






「‥‥‥」

『あの人なら、あいつと張り合えるよ!クールな感じがまた、タイプが違っていいよね』

「‥‥張り合ってどうするのよ」



元彼のこと、あんなに恰好良いとかイケメンだとかはしゃいでいたくせに。
別れたら「あいつ」と嫌悪感混じりに呼ぶ亜美に、呆れと笑いが込み上げた。

遠回しに、私の味方なんだと宣言されて。




『んー?だってさ、あの時見てたもの』

「は?何を」

『だーからー、‥‥‥‥やっぱりいいわ。私が言うべき事じゃないし』

「ちょっと何!?」

『自分で見つけなさいよ。私も忙しいの。奈々が元気か確かめたかっただけだしね』





また電話するわ。

と、謎の言葉を残して切れた通話。
何の反応も返さなくなった携帯をスライドさせながら、深い溜め息を吐いた。




‥‥‥亜美には、否、誰にも言えない。




今日、彼女の言う「クールな感じ」の彼との間で始まった、この関係を。






















今日はツイてる。
そう思わせたのは、亜美との電話の翌朝だった。

昼食代わりの軽食を買っておこうと入った、駅前のパン屋。
センス良くグリーンが配置されたテラスに、白とピンクのガーベラが良く映えている。

人気店なので普段はレジに並ぶけれど流石に早朝だと私以外に客の姿はなかった。




「朝からお仕事ご苦労様です」



レジに居るお気に入りの店員さんの飛び切りの笑顔と、一つ増えてるパン。



「うちの新作にしようかなって思うんですけど、良ければ試食していただけませんか?」

「‥私?」

「はい!昨日も残業ですよね?夕方、駅と反対に歩いて行かれたから」



差し出がましいと思うんですけど‥‥‥と、頬を赤らめる店員さん。
まだ18か19歳だろうか。

私より幾つか年下の筈なのに、意外と洞察力があると感心した。
さり気ない気遣いも嬉しい。



「元気が出る魔法のパンなんですよ」

「ありがとう」



‥‥本当に元気が出そうな気がする。
朝から良い気分で出勤できた。




















昨日の今日でどんな顔をして会えばいいのか───。



悩みながら出勤したものの、彼の態度はいつもと何ら変わらず。



「早いな、水嶋」

「昨日は残業‥‥出来なかったから」

「そうだったな‥‥安心してくれていい、今日は好きなだけ残業が出来る筈だ」

「そんな保障はいらないんだけど」



何もない普通の会話。

まるで昨日は夢だったかのように。







「‥‥はい、プロット原案。雛形だけエクセルで打ち込んでみたんだけど、こんな感じでいいかしら」

「ああ。眼を通しながら昨日の打ち合わせ内容を口述するが、いいか?」

「どうぞ」



そんなことだろうと思って、手帳とペンも持ってきていた。

私と有川くんの席は部署内でも対角線上で端と端。
用があるのは私だから、今は座りながら書類を捲る彼の後ろに私が立っている。



「先方から追加の要望があると部長から伝言だ。明日13時、担当の挨拶を兼ね訪問する段取りを昨日取り付けた。その際に細かく打ち合わせる。今回は特に大きな契約だから慎重に、と部長が念押ししていた」



書類を繰る音。
すらすらと淀みなく言葉を紡ぎながら、眼は活字を拾う。


彼は以前、貿易関係の会社に居たらしい。

時間が勝負の仕事をしてきたのだと、そう言えば以前、事務の子から聴いた記憶がある。


何故、業種が全く違ううちの社に来たのか。
噂によると社長直々にスカウトしたらしいが、それも解る気がした。

‥‥最初は、無愛想で嫌な人だと思ったけれど。



と、手帳に書いていきながら頭は考え事で一杯だった。




「先方の担当者は松井さん。健康の為自転車通勤をしている。40歳だが、来年成人の娘が居るらしく、溺愛している。休日は写真展に通うらしい。先週の午前中も見に行ったとか」

「なるほど。家庭的な人なのね」

「水嶋。娘を可愛がる事と、家庭的をイコールで結ぶのは早計だろ」



予め先方担当者の好みや性格を調べておく。
私の方針だけれど、別に私だけではなくうちの部署の人間は皆そうだと思う。

最終的には社の重役会議で決まるのだが、その前には担当者という関門があるのだ。

こちらから提案する作品は、勿論パターンが違うものを幾つか用意する。
だが、それを会議にかける前に担当者が責任を持って吟味するのだから‥‥。

好みや癖や、人物像を知っているほうが何かと便利なのだ。
特に、卑怯な言い方になるが、「詰め時」には。



「だって先週のと言えば『家族のしあわせ』写真展だと思うわ。他ではこの中途半端な時期に、近郊でやっていないもの」

「確かに、午前中で帰って来ているのだから遠出はない、か」



一旦言葉を区切り書類から顔を上げる。
私を見て、ふっと笑った。
それは微笑、ではなく明らかな笑顔。

頬が一瞬だけ熱くなった。



「‥‥‥水嶋の推察は面白いな」

「写真展が好きなのよ、私も。それだけ」

「そうなのか?それともう一つ、面白いところを発見したが」

「何よ」

「此処だ」



綺麗な人差し指でトン、と示された所を見ると、『流用防止』が『流用帽子』になっていた。



「流石に四次元ポケットの道具を出す予算は、部長も許可してくれないんじゃないか?」

「あぁっ、ごめんなさい!すぐ直すから」

「黒田さんの言ってた通りだな。水嶋の誤字は破壊力があると‥‥不意打ちは反則だろ」

「わ、悪かったって言ってるでしょう?」



尚も肩を震わせる有川くんの手から書類をもぎ取って、訂正箇所を打ち直す為デスクに戻った。
心の中で四次元ポケットの友人と、彼を重ねてやる事で溜飲を下げながら。
























「水嶋、今日はこの辺で切り上げよう」

「‥‥もうそんな時間?」



残業が始まった時までは覚えている。

それから夢中でキーボードを叩き、掛けられた声に驚いて顔を上げた。
ガラス壁越しの空は、夜が深い。
時計を見遣ると九時を過ぎていた。



「俺も仕事に時間を忘れていたんだ。ごめん、水嶋」

「気にしないで。丁度もう一つのプロットが出来たところだし」

「もう出来たのか?早くて助かるよ」

「今チェックする?」

「ああ‥‥いや、明日の朝でいい」

「そう?じゃぁ、お疲れ様」



コンピュータの電源を落としている間に、バッグの中に手帳やメモをしまう。
それから多少散らばったデスクを片付けようとしたが、まだ有川くんが隣にいる事に気付き顔を上げた。




「‥‥‥どうし‥‥え、」




どうしたの?と、口から出掛かったまま、途切れる。


明らかに先程までの「同僚の顔」とは違う、眼が真っ直ぐに私を見抜いていた。



それだけで、昨日のことがリアルに思い出される。

今、ドキドキしていのは、このシチュエーションが男女の空気だから。



私は彼を愛していない。
だから今、胸を過ぎるのは、気まずさと背徳感と‥‥‥あとは、何だろう。



「水嶋、単刀直入に聞く」



言いながら私の腕を掴み立たせると、視線の高さが随分違った。

昨日も思ったけれど、身長差が思っていたより結構ある。




「昨日の事は了承と取っていいんだな?」

「そのつもりよ。何?有川くんこそ早速後悔しているんじゃない?」



有川くんと眼を合わせながら話していると、全て見透かされそうで怖くて。
視線を下に向けた。

他にどう言えばこの微妙な空気を変えられるのか。
わざと怒らせて、こちらが有利に流れを変えられたら、話を終えられるだろう。



けれど。そう思っての発言は、彼には逆効果だったようだ。



「後悔する位なら、初めから提案する筈もないだろ」

「‥確かに」





昨日とは違い、一歩距離を開けて立っている。
彼は私に気遣っているのだろう。
怖がらせないようにと。


不思議なことに、そんな優しさを見せられると却って寂しく感じてしまうものなんだろうか。




‥‥‥私は今、この距離がもどかしい。







自分から一歩、前に出た。
瞬間、視界は暗くなる。

包まれたのは昨日と同じ熱。




「水嶋‥‥‥」



掠れた低い声に剥き出しの男を感じた。

そして同時に、私の内側で眠る、女の部分をも引き出された感覚。




「私‥‥ずるいの。本気であなたを利用したい」

「お互い様だろ」

「‥‥‥ん」





顔を傾けて、眼を閉じて。

すると唇に感じる熱。




触れるだけのキスはすぐに離れたのに、もっとと求めてしまい、そんな自分を恥じた。



「あり‥‥‥──っんっ‥」



心の動きに気付かれたのか、離れた唇がもう一度戻ってきたのはその時。

無抵抗な私の身体を抱き寄せ、片手を背に回し、もう片手は私の髪に潜らせる。

ふわっと昨日と同じ香水の匂いがして、身体から力が抜けた私は背中に手を回した。







眩暈、しそう。









今度のキスは激しくて、何度も角度を変えては求めてくる。



抵抗する意思なんて初めからない私。









「‥‥‥水嶋‥‥」









掠れた声で呼ばれる名前。

身体の奥が熱く震える‥‥。






踏み出してしまった私達。

行く末がどうなるのか見えないけれど、今はそんなことを考える余裕なんてない。














有川くんの腕に、胸に、身を委ねきった。









 






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