涙は、とうに枯れたと思っていた
本当は癒えない傷口を、曝しているだけだと
‥‥‥思い知る。
【03. その言葉が唯一の繋がり】
「最初に聞きたいんだ。何故水嶋は、俺を呼ばないのか」
「‥‥‥‥‥‥‥」
「苗字ですら一度も呼ばれたことないよな?」
どうでも良い事を問いかけるにしては、彼の眼が鋭い気がした。
「‥‥別に、あまり話した事もないからじゃない?」
「それだけか?」
「そうよ‥‥‥有川くん。これでいい?」
そこまで言われれば諦めるしかなかった。
内心で溜め息を吐きながら、さり気なさを装い彼の苗字を呼ぶ。
思った以上に鋭い彼に気付かれぬように。
他に理由などないといった風に、伝わればいいのだけれど。
さっき私の言った言葉は間違えていない。
彼とは取り立てて、会話という会話をした記憶がないから。
‥‥あの、衝撃的な日までは。
「話はそれだけ?」
「話というか‥‥‥俺もまさか水嶋が居るとは思ってみなかったから、他に話題を考えていなかった」
その一言と眼鏡の奥の戸惑いがちな緑を見て、彼にも不意打ちだったことが分かった。
よく考えれば当たり前じゃない。
一度、酒の勢いで関係を持っただけで、しかも「忘れて」と言った女を追う理由なんてない。
そんなの自惚れに過ぎないのに。
その後当たり障りのない仕事の話を幾つかして、私達は店を後にした。
朝一番に出社したと思ったが、部署には人の姿。
会いたくない人物達の一人である事が、勤務時間前に清々しく仕事に打ち込もうとした私の気分を、かなり落としてくれた。
「お、早いな水嶋。忙しいとこ悪いがコピー頼む」
「忙しいのでご自分でどうぞ」
デスクへ向かう私を呼び止めた黒田さんに素っ気無く返すも、一応は足を止める。
「機嫌悪いな。何だ?女の子の日か?」
「違います。セクハラで訴えていいですか?」
勿論本気でないと黒田さんも知っている。
それでも嫌味の一つや二つをぶつけてやりたい程度には、昨日の事を根に持っていた。
「うわ、可愛くねー後輩だな。アイツに言いつけてやる」
「何で彼に言うんですか。関係ありません」
‥‥‥迂闊だった。
そう思ったが、時既に遅し。
満面の、且つ何か企んでそうな笑顔を前に、あれこれ言いたかった不満を飲み込んだ。
「彼?俺は一言も男だとは言ってないけど。誰の事だ?」
これは何を言い返しても、無駄だ。
簡単にネタを提供してしまった自分に苛立ちを覚える。
わざとらしく深い溜め息を吐いてやってから、デスクに戻ろうとしたものの。
がっちりと手首を掴まれた。
「水嶋ー。無視するなよ、傷付くんだぞ」
‥‥‥本気で訴えようとちらりと思いながら、手を振り払おうとした時だった。
「何してるんですか」
「‥‥‥」
掴んでいた黒田さんの手は離れ、別のそれに包まれる。
瞬間、鼓動が跳ねた。
それを気付かれたくないから、必死で平気な振りをする。
「後輩を苛めるのは感心しませんね」
「苛めてねぇって!水嶋とは有川の話をしてたんだ、な?」
「‥‥俺の?」
「有川くんの話はしていませんよ。ほら、時間が勿体無いからさっさと仕事しましょう」
空いた手で有川譲の手をそっと剥がし二人に笑いかけると、「そうだな。残業はごめんだ」と黒田さんがキーボードを叩き始めた。
なのに、彼はこちらをじっと見たまま。
「有川くん、何?」
「‥‥‥いや。今の予算書作成が終わったら来てくれと、部長から伝言だ」
「分かったわ、ありがとう」
彼にして珍しく歯切れの悪い語調も気にならずデスクに戻った。
ノートパソコンの電源を入れれば、後は仕事の世界。
ひたすら決められた言葉や数字を入力していく。
指から紡ぎだされるカタカタという音は単調だけど、一種の音楽のようで結構好きだったりする。
日々忙しく、仕事は順調で。
プライベートの悲しみは癒されていく。
そのつもりでいた。
「部長、お待たせしました」
「ああ水嶋君。忙しいのに悪いがそのまま少し待ってくれ。有川君を呼ぼう」
作業を終え伝言通り部長室へ行くと、部長は内線ボタンを押し一言。
此処に彼を呼ぶ理由を測りかねてる間に、部長室のドアがノックされた。
入ってきた彼の表情は相変わらず読めない。
「有川君には朝一番に説明したんだが。二人に是非やって欲しい仕事がある」
部長は大きな体格と厳しい面構えに似合わず気さくな人物だ。
人を見る眼も確かで、うちだけではなく他の部署の社員からも慕われている。
例えば今回の様に新しい仕事が営業から回された時などは、可能な限り部長自ら私達に振り当てるのだ。
仕事の内容に眼を通し、部署の人間の中から適切な人員をピックアップする。
仕事の質や部下の能力や人間性、そしてクライアントの特性を見ての判断。
一見簡単な様で難しいそれらを正確にこなし、更にミスがあればその叱責とフォローとを的確に与える。
そんな部長だから人望が厚いのは当然。
勿論私も尊敬していた。
‥‥‥この時までは。
「今回のクライアントは大手だ。一応営業課が契約を結んでくれたが、内容如何では考え直すとの条件でな」
「成る程。初契約ならそれも当たり前ですね」
「ああ、成功した時の報酬が大きいしな。本来なら四、五人で組んで貰う所だが、生憎うちの現状を考えれば裂けることは出来ない‥‥‥優秀な人員を二人。これで賄う他にないんだが」
「‥そうですね」
確かに春向けのCMやCFの依頼を抱え、部署全体がバタバタしている。
四人なんて無理だから、最も優秀な人間を割り当てれば。
そんな部長の意見は納得できる。
だから有川君が此処に居る事も、癪だけれど納得できる。
‥‥でも、どうして私まで呼ばれたのか?
その答えはすぐに部長の口からもたらされた。
「そう言う訳で黒田君と話し合ったんだが、君達二人が適任だと一致した」
手渡された書類を捲りながら相槌を打っていた私だったが、次の言葉に手が止まった。
「‥‥待ってください。それって‥」
「この仕事は有川君と水嶋君にチームを組んで貰いたい。有川君も異存はないな?」
「はい」
貰いたい、だなんて言いながら拒否権などない。
これから毎日、彼をパートナーに仕事をして行くなんて。
考えるだけで頭痛がした。
私と彼の間の微妙な関係を知ってか知らずか。
タイミングがいいのか悪いのか。
悪いに決まってる。最悪。
コンビを言い渡されて四日目。
私達の滑り出しは順調。
お互い仕事以外の話を一切せず、けれど気まずさや息が合わない歯痒さはない。
細かい事で意見が食い違ったりしても、互いのアイディアを二人で検討すれば、どちらを採用すればより良い作品が出来るか見えてくるから。
正直な所、他の誰と組むよりも仕事がスムースだった。
それは仕事への姿勢が、似ているからなのかもしれない。
そして意外なことに、彼はクールなイメージとは違い気遣いが上手だった。
僅か四日。
それでもパートナーとしての相性が抜群なのだと、認識するには充分。
この日も残業は確実だった。
夕礼が終わってすぐ「夜食でも先に買っておこうか」と席を立った彼を制し、私が買出しを引き受けた。
「じゃぁ俺はその間に部長と打ち合わせをしてくる」
「了解。そっちはお願いね」
「任せてくれ」
遅くなるとコンビニしかないが、今ならまだ夕方。
パン屋で野菜サンドやカツサンドを二人分‥いや、多めに三人分以上は購入した。
「ありがとうございました!」
笑顔と声の可愛い、お気に入りの店員がにっこり笑う。
やっぱり癒される。
なんて思いながら歩き出した時。
「‥‥‥‥‥‥」
一番見たくないものを、見てしまった。
三年間
愛していた人と、顔を合わせて笑う新しい彼女の姿を。
そっとその場を去るしか、選択肢はなかった。
忘れられると思っていた。
時々、思い出しては涙が溢れそうになっても
段々と思い出すことすら減っていったから。
このまま仕事に没頭すれば、忘れられる。
そのつもりだったのに。
「‥‥‥‥‥‥っ」
オフィスに戻ると、誰もいない。
有川くんもまだ打ち合わせから戻っていないようだ。
ホッとしたら嗚咽が込み上げてきて、パンの袋をデスクに置きチェアーに座るなり顔を覆った。
────三年間
あの人しか見えなかった時間は、まだこんなにも鮮やかなまま。
本当に幸せだった。
付き合いはじめてすぐ、あの人の中に忘れられない人が居る事に気付いていた。
それでもいいと思ったのは、私の事をとても大切にしてくれたから。
私の事も愛してくれたんだと信じている。
あの人は、もう戻らない。
嘘を吐けるほど器用な人じゃないから、
私以上に好きな人が出来た時も正直に謝ってくれた。
そんな人だから、きっと余計に───
───忘れられない。
無人だった部署に声が降ってきたのは、どれ位後だったか。
「水嶋、戻って来たのか‥‥‥‥‥水嶋?」
訝しげに名を呼ばれても、顔を上げられない。
「水嶋?どうかしたのか?」
「‥‥‥何にも、ないっ‥」
「何もないなら俺の眼を見て答えてくれ」
トーンの変わらない声音に何故か安心を覚えてしまった。
溢れそうになる新たな涙。
「‥‥‥仕方ないな。残業は明日に回そう。水嶋は帰ってゆっくり休んでいいから」
「ごめんなさっ‥‥」
泣き顔を見られぬため更に項垂れた私の肩に、暖かい何かが触れる。
それが有川くんの手だと気付いた時。
椅子ごと私は抱き締められていた。
「‥‥水嶋。何が、あったんだ?」
腕の中は熱くて、彼の香水が上品に漂って。
落ち着いた声音からきっと彼は真顔を崩していないのだろうとか、そんな拉致のない事を考えた。
表情を変えずとも彼が心配してくれているのだと、理由もなく思う私はどうかしている。
「‥‥有川くん‥‥‥お願い」
───卑怯で、最低
ほかの男を想いながら、
有川くんの背に腕を回す。
有川くんは、あの人じゃない。
寧ろ真逆のタイプなのに。
「忘れさせて‥‥」
「‥‥‥忘れるって、何を?」
「‥‥好きだった‥‥ひと‥‥っ‥」
癒えない失恋の傷は痛みを超えて息苦しさを訴える。
‥‥だからと言って、何を馬鹿なことを口走ったのだろう。
我に返った私は、慌てて彼から離れた。
「ご、ごめんなさい!今言った事はナシ!忘れて」
「‥‥また『忘れて』か。まぁ、水嶋らしいと言えば水嶋らしいか」
「だって、流石に今のは‥」
「この仕事が終わるまでで、いいのか?」
「‥‥‥は?」
振り切った様に顔を上げた私を、じっと見ている。
レンズの向こうで真っ直ぐな眼差しが、そのまま時を止めた。
つられて私の時間まで‥‥‥止まる。
「水嶋さえ良ければ俺を利用して構わない。俺も‥‥‥別れたばかりだから」
そこで初めて気が付いた。
彼の薬指に、薄らと残る痕。その意味を。
「互いに利害が一致する。今からでいいのか?」
「‥‥‥うん」
「期限は、そうだな‥‥‥」
「この仕事が終わるまで、ね」
「‥‥ああ」
愛情などなく、同情からの
‥‥‥まるで仕事の契約と変わりないような、始まり。
私達にはそれで充分だった。
自分で思う程、人は強くなくて
未練を伴う失恋は思うよりずっと、痛くて
傷付いた心は、そう簡単に忘却を許してくれない
それでも、忘れるしかない今
差し出された手に縋り付く弱い自分を止められない
それは罪悪感を伴う、甘美な誘惑
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