その指は私に‥‥‥触れたのだろうか






どんな風に、触れるのだろう





気にならない筈、ないじゃない。














【02.それは反則】













「水嶋」

「はい」

「今回は水嶋お得意の誤字もなかったよ」

「‥‥大きなお世話です、黒田さん」

「ははっ。ま、オッケーだから社長室へ持っていってくれ」

「はい」



先輩のチェックを済ませた書類が手元に返ってくる。
‥‥やり手で気さくで本当にいい男だ、黒田さん。


感心しながらふと見ると、書類を手渡す節くれだった手が視界に飛び込んだ。

大きな手。
大人の男の、指。






釣られてフラッシュバックしたあの朝の光景。







同じ男の手でも、あの朝緩やかに髪を掻き上げた有川譲の手はもっと綺麗で、もっと。

もっと‥‥‥




「水嶋?おい!」

「‥っ!は、はいっ。社長室ですね、行ってきます!」

「‥‥大丈夫か?あいつ」



‥‥何を動揺しているの、私。


もっと色っぽかった、とか考えてしまうなんて、どうかしている。
あの指に躍らされたのか、どんな触れ方をしたのか、なんて。



「有川、この書類を予算内に合わせられるか?」

「‥‥‥見積りを検討しましょう。まだ交渉の余地はある」

「まだ甘いんだな?了解っと」





廊下に出る直前耳に飛び込んだ、黒田さんと会話する声。



淡々としたそれに後ろ髪を引かれ、振り返ってしまった。


視線の先には書類を片手に、小気味良いリズムでキーボードを叩く仕事中の姿。

きっと指よりも口よりも速く、頭が回転しているんだろう。
嫌味な位正確な。

言わば、彼はそんな人。

そんな無駄のない後ろ姿を追ってしまう私に気付き、振り切った。





‥‥‥‥どうやらアレが相当ショックだったらしい。
少なからず意識してしまうのは、仕方ないの。

それでも皮肉な事に、失恋について考える時間が半分で済んだ。
だからと言って感謝したくはないけれど。















社長直々のチェックをお願いしに行く。

短大卒でそのまま入社したのが此処、それなりに名の売れたCM製作会社だった。

二年目でCMの製作案に携われた。
それは君のアイディアがなかなか斬新だからだ、なんて部長に言われた時は嬉しくて。

最初は楽しかった仕事。
けれど二年経った今では、ただ消化すべき日常と化していた。




‥‥それを寂しいなんて思ったこともない。

有川譲が現れるまでは、確かに平和だったから。










紙面によるチェックを好む社長に手渡す、プリントアウトした書類の束。
資料も含めると一冊の本と変わらない厚さのそれは、毎日残業までして作り上げた結晶とも言える。

…仕事とは言えよく頑張った、私。



胸に抱きこんで廊下の絨毯を踏みしめながら。
緩む頬は押さえられなかった。



「あ、水嶋さん。終わったの?」

「ううん。これから社長チェック」

「お疲れさま。今日こそ定時で上がれるんじゃない?」

「あはは、やっとね。脳をフル回転して疲れちゃった」




声を掛けたのは総務課の事務をやっていて、美人で有名な山崎さん。
彼女が言う通り、やっと残業生活からオサラバ出来るのだ。



「ねぇ。疲れたのが脳だけなら、駅前のケーキ屋さんで甘さ補充しない?」

「新しくオープンした店?」

「そうなの、前から狙っていたのよ。一度水嶋さんと行ってみたかったの」

「そう言って貰えて嬉しい。是非お誘いに応じないとね」



部署も違えば、一緒にランチをする程親しくはない。
けれど、廊下で擦れ違う度、挨拶の他に一言二言会話をするようになって結構経つ。

気さくな美女な山崎さん。
仲良くなれるチャンスなら是非あやかりたい。



チェックが終わってからエントランスで待ち合わせと決めて、社長室へ向かう。
すっかり足取りは軽くなっていた。































「‥‥‥えっ?黒田さんが?」

「あら、やっぱり知らなかったのね」



ふんわり甘いシフォンケーキを口にしたまま驚いた私に、山崎さんはクスクス笑っている。

若くして敏腕な同じ部署の先輩・黒田さんと、山崎さんが婚約するとは。
そんな事、黒田さんは匂わせた事すらなかった。




「うーん。もしかしたら他の子達は知ってるかもだけど、私は」



情けない事に社内の噂や恋愛ネタには全く興味なくて、ランチを一緒にとるメンバー内でも結構浮いていると思う。



「そんな気がしていたわ。水嶋さんの話はよくするの」

「‥‥黒田さん、どうせ悪口ばっかり言ってるんじゃない?凡ミスばっかりする奴だって」

「ふふ。彼とだけではないけどね」



意味深に笑いながら山崎さんは、綺麗な仕草でコーヒーを飲む。

残念。
黒田さん、ほんの少しだけ憧れていたのに。
なんて、本気ではないけれど残念そうな素振りを見せれば、山崎さんは笑った。






‥‥ああ。そういうことか。
あまり接点のない私を誘った理由に、今頃思い当たった。






「あなたへの牽制のつもりで誘ったんじゃないから誤解しないでね」

「‥‥‥」

「すぐに顔に出るのね。可愛い」



‥‥なんていうか、凄いこの人。



「今日の目的は、水嶋さんと純粋に仲良くなりたかったのと‥‥‥‥あ、来た来た!」




言葉を止め私の肩越しに、「こっちよ!」と可愛らしく手を振った。
輝く笑顔をまともに見てしまって私は眼福気分を味わいながら、山崎さんの視線の先を追うように振り返る。

そこには予想通りに、黒田さんがコート片手に近付いていた。



「黒田さん。お疲れ様です」

「何だ。社長にあっさり解放されたのか。俺より早いとは生意気な後輩だ」

「日頃の行いがいいからでしょう。私は‥‥‥‥‥え?」











黒田さんの後ろ。

店の入り口に、少し遅れて入ってきた人。





「水嶋さんを連れて来たわよ」

「流石だな」




振り返った姿勢のまま固まる私には、二人の会話も耳に入らなかった。




最悪だ。





ここ一週間、何度そう思っただろう。

‥‥‥本当に最悪。
一番顔を合わせたくなかった人が今、こちらに来ようとしているのだから。
職場だけでも疲れるというのに、何でアフターまで。

帰る。そう言いたい。
なのに、二人に怪しまれてしまうから言えないじゃない。




「有川。こっちだ」

「デートで浮かれているのは判りますが、走る前に店名位は言って下さい。俺も黒田さんを追いかける羽目になるんですから」

「‥‥‥お前も生意気な後輩だな。可愛くない」

「可愛いなど思われたくありません。ましてや黒田さんに」

「本っっ当に可愛くないな。まだ水嶋の方が可愛気があるぞ」

「それはそうよ。水嶋さんは可愛いもの。ね?」




‥‥ちょっと待って。
一体何この空気?

黒田さんだけでなく、どうやら有川譲も山崎さんと顔見知りらしい。

ね?と山崎さんに聞かれた有川譲は、ぽかんとしたままの私に、この日初めて視線を向けた。


忘れて。


言ったのは私。
その癖、この一週間、避け続けたのも私。
忘れてないと主張しているようなものと知りながら、どうしても逃げずにいられなくて。


自分勝手な私に対し、有川譲がどんな態度を取るか想像に難くない。
きっと、仕事中の有能でない社員に接するように、容赦なく切り捨てて来るの。


それもそうだろう。
私が彼の立場だったら冷たくしてしまうかもしれない。
身勝手な女に良い感情なんて抱く訳がないから。




‥‥‥だけど。







「‥‥水嶋は、可愛いよ」

「‥‥‥は?」







何を言ってるの、この人。







「おいおい。有川、お前そんな素直な奴だったか?」

「知らなかったんですか?」

「知らなかった。見ろ鳥肌が」

「失礼な先輩ですね」



はぁ、と深い溜め息を吐きながら、今やって来たコーヒーカップを持ち上げる。
その長い指に、また視線が縫い止められてしまった。

だから、その後の山崎さんの台詞に咄嗟に付いて行けなくて。



「‥‥馬鹿。邪魔者はさっさと消えましょ。若い二人にして上げなきゃ」

「‥え?ちょっと!」

「ふふっ、水嶋さん。有川君が奢ってくれるって。ごゆっくりね」

「はぁ!?」

「有川、程々にな」

「変な想像をしないで下さい」







逃亡者の様に、さっさと店を出て行った二人。


私はこの展開が全く分からなくて、
ハメられた‥‥とか思いつつ、それが誰に対してなのかすらもう、謎だった。




「水嶋‥‥ちゃんと話し合いたいんだ」





そう言いながら斜め前の椅子を引く、有川譲の手はやっぱり綺麗で繊細で。
先週見たときよりもリアルに男らしく映った。




「最初に聞きたいんだ。何故水嶋は、俺を呼ばないのか」

「‥‥‥‥‥‥‥」

「苗字ですら一度も呼ばれたことないよな?」









‥‥‥何故、このタイミングでこの質問が出るのか。

私の眼に、拒否する光が宿っているだろう、きっと。













思えば、気付かないのではなく

気付きたくなかったのだと。





貴方を知るのが怖かった。

貴方を見るのが怖かった。



距離を保たなければ、惹かれていくのを止められないと

知っていたから‥‥‥。









 


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