あなたは、近付いてはいけない人だった。
深く知るのが怖かった。
彼の弟と知りつつも、関係ないと
ずっと、知らぬフリをした。
理知的なレンズ越しの、鮮やかな緑を。
淡々と紡ぐ言葉の、硬質な声音も。
キーを叩く指のラインも、何もかも。
自分自身を、誤魔化さなければならなかったの。
初めて会った時から、綺麗に伸びた背中を。
眼で追っていた理由は───
【11. 瞳を閉じても耳をふさいでも】
『奈々、お前の会社って‥‥‥』
将臣が、聞き慣れた社名を口にする。
『そうだけど。私の会社がどうかしたの?』
『あー‥‥いや。昨日、譲がな』
『譲?あ、弟さんね』
まだ会った事もないけれど、名前は知っていた。
俺よりずっと頭が切れるんだ、と、何度か聞いていたから。
『‥譲がヘッドハントされてさ、転職する会社がその名前』
どっかで聞いたことがあると思ってた。
そう言って笑う将臣の前で、私はかなり驚いていた。
うちの社は社長が一代で急成長させただけあって、言わば経験や勤続年数よりも実力重視だ。
同じ日に入社しても、能力や人としての査定がシビアに金額に出る。
だからこそ働き甲斐があるともいえるけれど。
社員の私が言うと身内贔屓になるかもしれないが、ヘッドハント、つまり引き抜きを打診されるなんて相当優秀な人材との証明だと思う。
『‥‥‥あなたの弟さん、相当優秀なのね』
『だから言ったろ?あいつは乗り気じゃなかったらしいけど、社長が食いついてきたらしいぜ?』
『‥え?社長直々なの?』
『まぁな。結局は最終的に交渉に当たった人を譲が気に入ってな。彼と組むのは面白そうだとか言ってた』
将臣の弟が、うちの社に入社する。
『ま、俺とは正反対なヤツだけどな。困ってたら助けてやってくれな?』
言葉の後。触れるだけのキスが焦れったくて、もう一度キスをせがんだ。
「奈々、おはよう!」
社のエントランスを抜けてエレベーターの前で待つ私の名を呼ぶ声に、少し溜め息を吐きながら振り返る。
思い描いたとおり、同僚の女子が満面の笑みで私の方に手を置いていた。
それでなくとも、切ない夢の名残を引き摺っているというのに。
ブルーな気持ちを吹き飛ばしてくれるあの笑顔はもう、夢でしか向けてくれないんだと。
それを思い知ったのは、過去の私達を夢で見たから。
そんな私の気持ちは勿論知らない彼女は、「まだ時間あるでしょ。ちょっとこっち来て」と私の腕を掴み女子トイレに連行してゆく。
始業前に眼を通していない書類をチェックしたいから早く出社したのに、と訴えてみるも、彼女の耳は鮮やかにスルーしたらしかった。
「‥‥おはよう。何だか随分ご機嫌ね」
「まぁね。‥‥‥ねぇ、この前の合コンで奈々を送った人、覚えてる?」
‥‥‥帰り際に、キスをしてきた失礼な人のことだろうか。
思い出せば少し腹が立つけれど、それを顔には出さなかった。
「顔は殆ど覚えていないけど。それがどうかした?」
「もう一回会ってやってくれないかなっ?」
「‥‥はぁ?」
思い切り怪訝な顔をする私にハイテンションな彼女は、合コンの時に私に惚れてしまったのだと力説し出した。
それも、キスをして私に平手を食らった事まで話しているらしく。
私に叱られた事で色々と眼が醒めたのだと言っているらしい。
「あいつ、相当遊んでたんだけど。遊び人は辞めるとまで言ってきたんだよ?だから改めて奈々を紹介してくれってもう必死でさぁ」
‥‥‥呆れて物が言えないとは、こういう事だろうか。
別に、男は無口でなければ、とか言うつもりはない。
けれどまぁ、そんなに簡単に自分の失態を話せるものなんだろうか。
もっとも、平手された事すら彼の中ではマイナスどころか美談になっているようで、ますますついていけない。
そう思う私は古風なのだろう。
だったら、古風でいいかもしれない。
同じ男でも将臣達とは人種が違うとまで思いながら、私は息を吐く。
「ごめんね、好きな人がいるの。だから無理だと伝えてくれる?」
「‥‥そっか‥‥うん、分かった。ごめんね?」
曖昧に断るより、正直に言った方がいい。
けれど‥‥
───好きな人
その一言が切なく圧し掛かってくる。
そして浮かぶ面影に、唇を強く噛んだ。
エレベーターを降りて彼女とは別れる。
晴れない雲間のような気分を切り替えようと、カツカツと音を立てて歩けば、高いヒールのパンプスから生まれる音。
それが私を仕事モードに切り替えてくれた。
「じゃあ黒田さん、結果が出次第、至急電話します」
「連絡は有川のタイミングに任せるよ。行って来い───っと、水嶋!いい所に来てくれた」
部署のドアの前に立つ二人に気付くと同時に、背の高い二人も私に気付いた。
足を止めるほどの用事もないので会釈して通り過ぎるつもりが、直前で上司に肩を掴まれた。
この呼び止められ方は絶対、面倒ごとを押し付けられる前触れだと、経験が物語ってくれていた。
「‥‥‥はい、なんでしょう?」
案の定、黒田さんは満面の笑顔。
「有川に急な仕事が入ってな、一週間程北海道支社に出向くことになった」
「そうなんですか?確かに急ですね」
「それでな、その間水嶋が代理で指揮を取って欲しい」
まだ、取り組み中の仕事が残っている。
流山詩紋側からの正式な連絡待ちとは言え、他にも片付けねばならぬ業務は多々あるのだ。
最初は私達二人だけだった企画だが、他の企画を終えた部署の人間がこちらに携わるようになった。
黒田さんの総括の下、有川くんが的確な指示を送り迅速に仕事を進めてくれるお蔭もあり、予定より随分早くこの企画も終わりそうではあるけれど‥‥。
「あっちでトラブルがあったんだ。で、社長直々に有川のご指名なんだ。こいつに取ったら気の毒な話だよな」
「そうなの?有能なのも大変ね」
当の有川くんをちらりと見れば、彼もまた私を見ていたらしい。
視線が合ったのは、ほんの瞬きする間だけ。
嫌味なほどさり気なく逸らされる。
勤めて嫌味でないよう気をつけたつもりだけれど、彼には不愉快だったの?
「そんな訳で打ち合わせでもして来い。俺が言っといてやるから、朝礼には出なくていい」
微妙に重い空気を物ともせずひらひらと手を振りながら部署に入っていく、黒田さんの後ろ姿を怨めしく感じた。
しなやかに長い指が鍵を回して、第三会議室のドアを開けた。
会議用の椅子に並んで座れば、書類を出して淀みなく始まる口述。
有川くんが提示する幾つかの業務を、私が細かくメモを取ってゆく。
彼の説明は的確で無駄がない。
そう言えば‥‥‥将臣はよく言っていた。
『あいつは頭がいいけど不器用なんだ』
と。
将臣が笑う表情が穏やかで、それだけで将臣の「弟」に好意と少しの嫉妬を覚えた。
もちろんそれは、彼の幼馴染に向けるものよりも僅かな嫉妬心だけれど。
私の知らない将臣の笑顔。
私の知らない将臣の時間。
それらを知る彼らが羨ましくて、それで‥‥‥
入社してきた有川くんを初めて見た時に、想像とはかけ離れた彼に驚いた。
太陽の様な将臣とは正反対の、冷たさを纏う彼の雰囲気に。
けれど時折感じる、有川くんの‥‥───
「水嶋?」
「‥‥あ‥‥ごめんなさい」
「‥いや、もう仕事の件は話し終わったから気にしないでくれ」
上の空だった私が慌てて謝ると、気にするなと彼の手が頭に触れる。
強く撫でてくれる将臣の手とは違って、あくまでもそっと置かれる手。
───それでも、私はもう知っている。
本当は、有川くんの手は熱くて。
「何かあったのか?朝から顔色がよくないけど」
本当は、あなたは馬鹿みたいに優しいことを。
「何かあったのか?」
「何もないわ。少し寝不足なだけなの」
二人だけの広い会議室は声が響く。
仕事中にこんな会話をしている事が、しかも有川くんが相手だなんて妙におかしくて、私は口元が緩んだ。
私が浮かべた微笑を、隣の彼がどんな風に捉えたのか。
「‥‥‥‥兄さんと会ったのか?」
「え?」
「いや、何でもない。とにかくあまり無理はしないでくれ。一週間水嶋に任せる事になるから」
「え、ええ。分かったわ」
一瞬だけ空気が変わったのは、気のせいだろうか。
聞き返した時には苦笑を浮かべていたし、きっと気のせいだろうと思うけれど。
それよりも私は、聞き取れなかった言葉は何だったのだろう?と不思議に思いながら、書類を纏める手をじっと見ていた。
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