「わぁ、いいじゃんその指輪!」
「亜美!声が大きいってば」
「ごめんごめん。でも、とうとう奈々も婚約かぁ。彼氏って一つ上だっけ?若いのによく決心したのね」
「私もまだまだと思ってたんだけど‥‥将臣がね、お前となら生きていけるって言ってくれたのよ」
「はいはい、早速惚気ですか。やってらんないわ」
耳に飛び込んできた会話にほんの少しだけ興味を引かれた。
正確には、愛しそうに零された名前に。
『将臣』と言う名前はありふれた物ではない。
それ故に、もしかすると身近な人のそれではと思うのは、身内として当然だろう。
興味をそそられながら一抹の寂しさを覚える様な、そんな何とも形容しがたい感情に駆られ、振り返る。
‥‥‥茜色の陽が窓際の席を優しく撫でる。
その斜陽が、カップに添える女性特有の、細く白い指先を照らしていた。
「だって、幸せだもの」
薬指で輝きを反射する銀。
未来への「証」を愛しそうに見る、柔らかな微笑。
幸せだと呟いた柔和な表情が、まるで其処だけ一枚の宗教画の如く視線を奪う。
彼女の友人が呆れた溜め息を吐くがそれすらも幸福な構図の一部の様に、彼女は笑っている。
「───と言うわけなんだが‥‥有川さん?」
「‥‥あ‥‥ええ、問題ありません」
我に返れば、目前で書類の内容を簡単に口述していた男が俺を見て、怪訝な表情を浮かべていた。
もう一度軽い謝罪を述べた後、頭を切り替えながら、細かく印字された紙を手に取る。
たった一枚の何の変哲もない紙面は、俺がこれから働くであろう会社での待遇や条件などが詳細に綴られている。
現在の場所がクラシックの音色が穏やかに流れる喫茶店なのは、人目が適度にあり且つ目立たないから、こういった話には向いているだろうという事。
それと、形式ばった契約の中でも、幾分打ち解けたいとの意図なのだろう。
決断を迫る時ほど適度に警戒心を解してやる方が、人心は動きやすい。
そういった計算をこの人ならやってのけそうだと、数十分前に会ったばかりの男に対して思った。
テーブルの右隅、書類の上に置かれた名刺をもう一度見る。
『黒田誠』‥‥‥それが、目の前の彼の名前。
名刺にはチーフと肩書きが記されていた。
二十代後半か。
まだ若いが細かな所まで気が付く、だが一見そうと悟らせないだろう。
きっと相当な曲者。
そんな部分は、昔の「仲間」で耐性が付いている。
──いや。あの叔父と甥には敵わないか。
脳裏に浮かぶ鮮やかな紅の化身と、柔和な美貌の男を思い浮かべれば懐かしさが沸いてくる。
今日此処に居るのは、所謂取引先からの「引き抜き」の話だった。
俺にも依存はない。
将来を見据えれば、収入が上がるのなら結婚も早く出来るのだから。
それにしても。
契約書を読めば、細かな事柄まで最初からしっかり線引きしているのは気が楽でいい。
『ええっ?こんなに細かいのを譲くん全部読むんだ?すごいね』
‥‥なんて、あの人なら本気で感心しそうだな。
物心付いた時から傍にいた彼女の膨れる顔を思い出して、俺はくすりと笑った。
「問題ありません。この条件で来月からよろしくお願いします」
「ん、こちらこそ。んじゃ終了ー!っと‥‥‥ああ、きっと俺の下で働いてもらう事になると思いますよ」
「願ってもないことですね」
きっといい刺激になるだろう。
この人の下なら、吸収できる事が多い筈。
「俺は容赦しない。最初からしっかりこき使うのでよろしく、有川君」
陽気な笑顔の奥で、その眼だけが強く俺を見据えた。
「期待外れにならないよう頑張ります」
この人は侮れないなと思いながら、ふと、もう一度茜色に目を向ける。
が、いつの間にかさっきの二人は帰ったらしい。
窓際には弱い茜の残光が、もう夜の訪れだと教えてくれた。
「あの、有川さん。か‥彼女は、いますか?」
「は?」
彼女‥‥が仕事に関係あるのか?
転職してからと言うものの、何故かこの手の質問が増えている。
まだ入社して間もないというのに、顔だけ‥下手すれば顔すら知らない女子社員が、俺の名前を知っているのも妙だった。
その度に貴重な昼休みの数分が奪われるのが正直惜しい。
「います。それがどうかしたんですか?」
「‥っ、いえ、‥すみません」
何なんだ一体。
顔を覆って走り出す背中に首を傾げつつ、部署に入る。
それよりも、月末の出張に必要なデータを早く纏めたい。
デスクに戻りノートパソコンを起動させた俺の、背後に迫る‥‥‥殺気。
「あーりーかーわー」
「っ!!く、黒田さん!?」
振り返ればニヤッと引き結ばれた口元に、これから数分間の運命を悟る。
「見ーたーぞー?」
「はぁ?」
「モテる男は辛いねぇ。ま、俺には負けるがな」
「何言ってるんですか」
勘違いも甚だしい。
モテるというのは、昔から兄さんに当て嵌まる言葉なんだ。
兄さんのような男ならともかく、俺には不可解な話だと思う。
「お前なぁ‥‥‥ちょっとは自覚しろ」
「‥‥はぁ」
「仕事ばっかりだと、人生損をするぞ?適度に遊べよ」
「‥‥‥ですが、俺は別に」
「あーあ、これだからなぁ。独身の内しか遊べないってのに‥‥」
この人の思考は未だ理解できない。
「ま、うちにはもう一人、重度の鈍感がいるか」
「‥‥はぁ、そうですか」
「おいおい、薄い反応だな‥‥って、そうか!お前はまだ会っていなかったな」
まだ会っていない同じ部署の人物といえば、一人だけ。
「今日、東北支社から戻られる方ですか?水嶋さんでしたね」
「そうそう、水嶋な。あいつも大概カタブツでなぁ‥」
初出勤の挨拶時に空いていたデスクの主の名を口にすれば、何故か黒田さんはニヤリと笑う。
これは人を揶揄う時の眼だろう。
「あいつな?入社した時、俺の誘いをあっさり断ったんだぞ。信じられるか?」
「はぁ‥‥‥気の毒ですね、水嶋さんも」
こんな面倒なのに捕まって。
‥とは心の中だけで呟く。
この人が有能なのは認めるが、やはり付き合いきれない部分がある。
「あ?有川、お前今付き合いきれないとか思っただろ?」
「‥‥‥いえ」
「可愛くねぇな。いいか?よーく聞け」
「‥‥」
「俺はあの時下心なんざなかったんだぞ?なのに水嶋が冷ったい顔でな、 「くだらない事言ってないで真面目に仕事してください黒田さん」 そうそう!そう言ったん‥‥‥‥お、水嶋!」
背後から、勢い付いた黒田さんを遮る声。
途端に破顔する黒田さんに若干驚きを隠せず、釣られて振り返る。
そして、更なる衝撃が訪れる。
「もう帰ってきたのか?丁度今お前の話をしてたんだ」
「違う話題になさって下さい。新人相手にご自身の恥をさらす程お暇なんですか?」
「相変わらず絶好調に冷たいな。安心しろ、出張帰りの可愛い後輩に仕事を思い出させてやろうと思ってわざと残してるんだ。優しい先輩だと思わないか?」
「‥‥仕事して下さい」
緩やかにカーブを描く髪をさらりとかきあげてから肩を落とすのを、何も出来ずにただ凝視した形となった。
そう、視線に気付き彼女が顔をこちらに向けるほどに。
眼差しが、絡む。
意図したのは素早く息を吸って吐くほどの刹那。
その刹那だけ音が止まった気がした。
「‥‥‥あ」
桜色の唇から微かな声が漏れるのを聞いて、ようやく我に返る。
あの時の茜色の風景と全く同じように、世界が戻る感覚。
「水嶋、彼が有川だ。まだ三日目だが使える奴だから、びっしばっし鍛えてやってくれ」
「‥‥分かりました。水嶋奈々です」
「‥‥‥有川譲です。宜しくお願いします」
あの時と同じ白い手が添えるのはカップでなく、社名入りの名刺。
違うのは、彼女が浮かべる笑みが儀礼上の物だという事。
豊潤な光を彷彿とさせる雰囲気は、今はなく。
そして、無機質で飾り気のない白の中央を飾る『水嶋奈々』の文字。
───あいつの名前言ってなかったか?奈々っつーんだ、可愛い名前だろ?ま、デカい会社だし同じ部署になるっつー可能性も少ないと思うぜ?
甦る声は、彼女の名を教えた兄のもの。
奈々
水嶋奈々
彼女が気付いているのか否か。
それすらも窺わせぬ隙のない眼差しに、俺の中で警告が生まれる。
これ以上近づ付くな、と。
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