愛しい罪を、抱いて








【16. 終わりの欠片が降ってくる】






昨日の雨が嘘のような、穏やかな晴天。
流した涙も、最後に見た表情すら、夢だと思うほどに空は青い。


「はぁ‥‥‥驚きすぎて一気に疲れたわ」


けれどそれは夢なんかではなくて、私は今、亜美とリビングで向かい合っている。


暫し流れた沈黙の余韻を残しながらマグカップを口に運ぶ。
コーヒーは、もうとっくに冷めている。

当然だ。
全てを話し始めてから、それだけの時間が経ったのだから。




全ては私の弱さから始まった関係。

将臣の「彼女」と彼の関係。

最初から将臣の弟だと知りながら、恋をしてしまったことも。



───そして、この恋の果てに手に入れたもの。



「全く、予想通りというか何というか、やってくれたわね」

「亜美‥‥何も相談しなくてごめん。怒るのも当然だわ」

「ああ、奈々に怒ったんじゃないの。気にしないで、不可抗力なんだから」

「‥?」

「で、仕事はいつまで?三ヶ月なんだよね、安定期まで油断出来ないって聞くし、早めのほうがいいんでしょ?」

「今月末で終わらせてもらうの。あと三週間は頑張るわ」

「そっか‥‥‥それまで顔を合わせるのは辛いわね」


何度もこみ上げた涙を、また喉の奥に押し込む。

けれど、潤む視界だけはどうにも誤魔化せない。


「‥‥‥大丈夫よ。ありがとう」


もう泣いてる暇はない。
これからもっと、強くならなくてはいけないのだから。


「それで?奈々の事だから覚悟の上なんでしょうけど。今の世の中、未婚の母が子供を抱えて生きていくのは大変なのよ」


この子には、私しかいないのだから。


「‥‥覚悟してるわ。実家でちゃんと話をするし‥‥当面の生活は何とかなる」

「そりゃあんなに働いてたら、暫く金銭面も何とかなるでしょうけど‥」


愛しさに泣いたのは一日だけ。

明けない夜はない。
朝が来て、あんなに悩んだのが嘘みたいに心は穏やかだ。

そんな私の決意を感じてくれたのか、亜美は、責めるどころか諭す言葉さえ口にしなかった。
ただ、問いかけてくるだけ。


「奈々はそれでいいの?」

「何一つ後悔してない、と言えば嘘になるわ。それでも‥‥」


肌に残る記憶を振り切るように目を閉じて、それから開く。



「‥‥彼の子で、良かった」



それだけは真実。
決めた選択は、自ら犯す最大の罪だとしても。


彼に何も知らせないまま、離れる罪。

『妊娠は間違いだった』と昨日私が口にした言葉が嘘だなんて、思いも寄らないだろう。
それでいい。


一生、彼は、自分の子の存在を知らず。
そしてこの子も、父親を知らずに生きていくのだ。

それがどんなに大きな罪なのか。

子供から親を、親から子を、何も知らせずに奪うのだから。
触れ合える権利を奪うのは私。

‥‥‥私は、母親失格だ。

将来、大きく成長したこの子に恨まれる日が来るかもしれない。
そう考えただけで辛い。けれど──


「私が一生をかけて、この子を幸せにする」


真っ直ぐ生きられるように、溢れるほどの愛を注ごう。


「‥‥バカねぇ。奈々はどうしていつも一人で解決しようとするの」

「亜美?」

「私にだってあんたを助けられる力はあるんだから。忘れないで」

「でも‥」

「支えになるって言ってるの。奈々は一人じゃないのよ?いい加減頼りなさい」


亜美が私の手を握りながら笑う。


「‥っ、‥ありがとう」


その気遣いの尊さに、とうとう我慢出来ず涙が零れた。

















そして、退職届を出した日からあっという間に三週間が経った。


「有川チーフ。頼まれていた統計書です」

「‥‥もう出来たのか。早いな」


休みが明け仕事に戻った日から、私達の関係も元に戻った。
否、傍目には何もなかっただろう。
今まで通りの距離。


「すぐ使われるとの事なので、一部だけプリントアウトしておきました」

「そうか。助かる」


先週の辞令で、有川くんは正式にチーフとなった。
有能で自分にも他人にも厳しいが、最近は人当たりが柔らかくなったと評判の新チーフ。

彼の話を耳にする度、誇らしくも寂しさや嫉妬を覚える浅ましい私を哂う。


「同封のメモリーにその分のデータを入れています。あと、雛形もファイル化しました。数字を入力するだけで同じ書式の書類が作れます」

「エクセル展開でいいんだな。パスは?」

「チーフのお誕生日です。必要なら変更してください」

「俺の?‥‥‥ありがとう、水嶋」


キーボードを叩く手は止めず、片手で封筒を受け取る。


今ではもう遠くなった、長くてしなやかな指先。
それから、私の名を呼ぶ硬質な音色。

あれから何度、この指に触れる夢を見ただろう。


「‥‥いえ。お疲れ様です、有川チーフ」

「ああ、お疲れ様」


もう一度、PCの画面に視線を戻した感情の窺えぬ横顔を、そっと見つめた。
瞼の奥に焼き付ける。



もう、二度と会う事はないとしても。

‥‥この横顔を忘れないように。いつまでも。














今日で最後だと思えば時間が刹那に感じた。


「‥‥皆には最後まで黙ったままで、本当にいいんだな?」

「はい。辛くなりますから」


新チーフ誕生と同時、黒田チーフが部長となった。
私達の責任者として指揮を取る事になったのだが、これがまた中々厳しい人だったりする。
仕事に対して無駄な手間を嫌うが、人柄は良く、好かれる人物。

終業30分前、挨拶に伺った私にそう言ってくれたのは新部長。

前の部長と同様、皆に黙って辞める事についても触れず「惜しすぎる人材なんだけどな、水嶋は」と温かな言葉だけをくれた人。


「‥‥俺としては、送別会もしてやりたかったんだが。お前を慕ってる奴もいたし、俺も気にかけていたからな」

「‥‥、ありがとうございます」

「まぁ、最後まで可愛げはなかったけどな」

「黒田部長‥‥‥女心が分からない人は、そのうち山崎さんに捨てられますよ」

「‥言ってろ」


思わず吹き出した私を見て穏やかに笑うこの人なら、これからもいい上司で在り続けるだろう。
‥‥有川くんの良さを引き出してくれるだろう。

それを間近で見られないのは残念だけれど。


「本当に、今までお世話になりました。部長の傍で仕事が出来て、とても充実していました」

「お疲れさん。いつでも戻って来い。お前なら大歓迎だ」

「はい。部長も頑張ってください」


もう一度、深く礼をして踵を返す。
開いたドアを閉めようとした瞬間、耳に滑り込むような、静かな声が聞こえた。


「‥‥‥何があったか聞かないが」

「え‥」

「頑張れ、水嶋」


ぱたりとドアを閉めるその隙間に見えた深い笑み。

‥ああ、一生この人には敵わないわ。
私も、きっと彼も。


感動にも似た感傷に浸りながらエレベーターを降り、ビルの玄関を抜けた時だった。


「───水嶋!」


人気のない廊下、一歩足を進めた瞬間腕を取られ、何者かが私の腕を強く引いた。












「‥‥‥」


重い空気のまま助手席側の窓の外を眺める。
明らかに、私のマンションとは逆の方向に進む車内。

バックミラーを見つめ続けるのは、反対側を見ないようにする為に。


半ば無理矢理、半ば強引に車に乗せられてから今まで続く沈黙。




このまま、何処へ行くのか。

何故、私を連れ出したのか。


終わった筈なのに。
あなたは私から解放されて、自由になった筈なのに。
寂しいのも、もう慣れた頃でしょう?

なのにどうして、私に構うのか───。









部長室を出た私を呼び止めたのは彼だった。


『水嶋』


身体に染み込んだ声音に、足はぴたりと止まってしまう。


『───え?』


振り返るよりも先に、後ろから私を追い抜いた。
驚いたのは一瞬だけ。
何故か同じ様に私の足も動き出す。
それは追い越し際に掴まれた右腕が、強く引っ張られたから。


『なっ‥何』

『話がしたい。来てくれ』

『私にはないわ』


『‥‥無理なら、抱えてでも来て貰うから』


『‥っ』


まさか彼がそんな脅しめいた文句を口にするなんて。
言い返す事も忘れ驚く私の腕は再び強く引かれ、今に至る。


話?

‥‥考えたくないが、嘘が露見したのだろうか。
病院には堅く口止めをお願いした。
患者のプライバシーを簡単に漏らすとは思えない。

それがもし漏れたとするなら──

瞼に浮かぶのは、私より先に妊娠に気付いた人の柔和な笑顔と油断出来ぬ眼差し。
‥‥彼ならばきっと造作もないのだろう。
そこまで思い至らなかった余裕のない自分に、深く息を吐いた。











「降りてくれ」

「此処は‥‥?」

「俺が今住んでいるマンションなんだ。最近引越したばかりだからまだ散らかってるけど」

「引越し‥‥?」


確か彼は将臣とルームシェアしていた。
そう以前、将臣に聞いた事がある。
家事能力の高い弟には助かってるんだって、快活に笑っていたのはそう遠い日の事じゃない。
だから今まで遠慮して訪れた事もなかった。
このタイミングで引越した理由とは何‥‥‥?

ふと思い浮かぶ『理由』に苦いものが落ちる。
まさか。私に関係があると思うなんて、自惚れもいい所だ。


「行こう」


ちらりと私を見る。
その瞳の強さに動揺したけれど、隠しながら首を横に振った。

‥‥微かな間が開いて、耳に届く小さな溜め息。


「‥‥そうか」


パタンと音を立てる運転席のドア。

此処に来てまだ強情な私に、流石に呆れられたと思う。
それでいい、このまま帰れるのなら‥‥。


間もなく左側から同じ音と共に、冷たい風が入り込んだ。


「えっ!?‥‥ま、待って!有川くん‥っ?」


助手席のドアを開けた彼は黙ったまま。
シートベルトを外され、驚く私を車外へと導いた。

否、導いたなんてものじゃない。抱きかかえられたのだから。



「言ったよな、無理なら抱えてでも来て貰うと」

「そんなっ‥、わ、分かったから!一緒に行くからもう降ろして!」

「‥‥」


どうにか地面に下ろしてくれた事に心からホッとした。

怖いの。
触れられてしまえば、もう二度と離れられなくなる。
好きなんだと告げてしまいそうで。







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