「適当に座って。紅茶でいいか?」


通されたリビングは、観葉植物が仄かにライトアップされている。

初めて来たけれど、柔らかな照明とナチュラルな配色に雰囲気が落ち着いた。
もっと機能的な感じだと思っていたのに、意外。
なんてふと思うのも緊張が解れたからだろうか。


「すぐに帰るつもりだからいいわ‥‥それで、話って?」

「今日で退社するんだってな」

「え?‥‥ええ。黒田部長から聞いたのね」

「ああ。但し、定時が終わってからだ。部下のプライバシーは守る義務があるが、社員じゃなくなったから時効だと、ギリギリになって教えてくれたんだ」

「そう‥‥」


ああ、だからあんなに焦っていたのか。
掴まれた腕にまだ熱が残っている。


「理由を聞かせてくれないか?」


彼は何処まで知っているのだろう?

惨めな思いをする前に、自分から打ち明けるべきか。



「ごめんなさい‥」


揺れたのは束の間だけ。力なく首を振る。

無理よ。
答えなんて一月前に出ている。
最後まで嘘を貫き通す覚悟も、とうに。


「そう、か‥‥‥だったら先に、俺の話をしてもいいか?」

「有川くんの話?」

「ああ。謝る事がある」


俯いた足元に影が差す。


「‥‥謝る‥?」


見上げると、いつの間に詰めたのか触れるほど間近に真剣な一対の瞳。

冷たいようでいて、けれど本当は火傷しそうな熱を持つ事を知っている。

否、知っていた。
私だけのものにしたかった。


「‥ごめん。最初から知っていた」

「‥っ!?知って‥‥って、何を‥‥?」


まさか。
声が、震える。


「水嶋が兄さんの婚約者だと知っていた」

「‥‥え?」


告げられた内容は予想も付かないもので。
あの事じゃないのだと安心の反面、私は固まるしかなかった。


「ずっと罪悪感を抱いていたんだ。俺があの人と別れたのも、兄さんが水嶋から離れたのも全て‥‥‥‥俺の所為でしかないから」

「‥ま、待って!何言ってるの‥意味が分からない」


あまりにも唐突な謝罪。
言葉の意味も上手く変換できず、頭の中を滑り落ちていく。


「‥‥あのまま行けば、水嶋は幸せになれる筈だった。俺が壊さなければ」

「有川くん、それは違う。将臣と別れた事は有川くんの所為じゃないわ。望美さんの所為でもなく‥‥‥ただ、私達に縁がなかっただけ」

「違わない。俺が、壊した。水嶋を好きになったから」


ふわり。
少し前まで毎日のように包まれていて、身体にすっかり馴染んでいた香りが漂う。
腕を引かれて抱きしめられたのだと、ようやく気づいた。


「知ってたって‥‥いつ、から‥?」

「社内で初めて会った時には」

「そんな‥‥じゃぁ、将臣と別れたのも‥」

「それも、兄さんから聞いて知った。あの日は偶然だったんだ。酔っている水嶋を見て、理由がすぐに分かったよ‥‥だから、本当は手を出すつもりなんてなかった。でも」


一旦区切った後、暫く声が聞こえなかった。


「‥‥有川くん‥?」

「‥‥やっと結婚まで漕ぎ着けた時に、丁度兄さんも結婚すると言ってきたんだ。相手は転職先の社員。何故か彼女は過剰なまでに俺を避けていて、最初に見せた笑顔を見る事はなかった」


黒田さんに引き合わされた時が初対面なら、笑いかけた記憶はない。
寧ろ近づいてはいけないと危機感を覚えたのに。

首を傾げる私を雰囲気で感じたのか、有川くんの腕の力が強くなった。


「最後まで聞いてくれ‥‥いつの間にか兄さんの彼女を眼で追っていた。先輩‥いや、あの人に指摘されるまで気付かなかったけど」


自嘲めいた笑みが頭上から毀れ落ちる。


「俺達の関係がおかしくなったのはそれからだ。ずれた歯車が軋み始めたと感じた時にはもう、あの人は兄さんが支えていて、もう終わっていた。だから、俺の所為なんだ」

「‥でも。それは二人がお互いを好きだっただけでしょう?お互いをずっと忘れられなかったって言ってたじゃない」


確かに、私は将臣を失った。
けれどあのまま上手く行っても、いずれは壊れる運命だったかもしれない。
そして私は見えない面影に怯えながら、将臣を離すまいと必死で生きていたかもしれない。


「私はもう立ち直ったわ。だから、有川くんが罪悪感を感じることなんてないのよ」


今なら言える。そうならなくて良かったと。

彼が、有川譲がいてくれたから‥‥。



「──鈍いとは思っていたが、まさかこれ程だなんてな。兄さんの言ってた通りだ。肝心な部分を聞き流されるとは」

「‥肝心?さっきから一体何のことなの?」

「奈々」


聞こえてきたのは、私の名前を呼ぶ最も愛しい声。
瞬間、世界がその姿を滲ませた。


 
「ずっと好きだった。でも、近付くのを恐れていた」


「‥‥嘘」

「嘘じゃない。俺は最低なんだ。あの人を傷つけても、兄さんを巻き込んでも、水嶋の傷心に付け込んでも欲しいと思った‥‥君を」


かすれた吐息混じりの声。


「子供が出来たって聞いて舞い上がったんだ。まだ兄さんを好きだと知っているのに、これで口実が出来ると思った」

「嘘‥」

「違ってたのは残念だったけど、それよりも水嶋と終わった事の方が落ち込んだよ。辞めると聞くまで動けなかった」

「‥‥嘘よ」


嘘よ、そんなの。

都合の良い夢でしょう?


「有川くん‥‥有川くんこそ、望美さんを好きなんでしょう?」

「は?」

「まだ忘れられてないのはあなたの方じゃない。妬いてしょうがなかった」

「‥い、いや、確かに彼女は兄嫁になるんだから他人じゃない。でももう忘れ、‥‥‥って、水嶋?」


部屋に来て初めて身体が少し離れた。
代わりに肩を掴む彼の手も、フレーム越しの眼差しも、微かに揺れている。


「妬いて───いたのか?」


信じられないって顔をしている彼が愛しくて、思わず笑った。
さっきから信じられない事ばかり言ってるのは彼の方なのに。

笑った瞬間、堪えていた熱が頬を伝って滑り落ちた。


「妬いていたわ。適わないと知ってても、あなたにあんな顔をさせるあの人が羨ましかった」


辛そうで切なさを隠せなかった、あの顔が忘れられない。


「‥‥ずっと、好きだった。でも、近付くのが怖かったの」

「嘘だろう‥‥」

「鈍いのはあなたも一緒だわ、‥‥譲」


ずっと言えなかった本心を告げた途端、また強く抱き締められた。
彼の手が震えてる。
それは喜びからだと思う事にする。
だって今、私も震えているから。


「もう一度言うよ‥‥奈々を愛してる。結婚して欲しい」

「‥‥‥っ、喜んで」



夢じゃないと実感できるのはきっと、この長いキスが終わってから。









貴方を知るのが怖かった。

貴方を見るのが怖かった。



距離を保たなければ、惹かれていくのを止められないと知っていたから。

触れてしまえばもう、止められなくて。

心より先に身体が素直になっていた。

引力は誰にも抑えられずに、切ない恋をした。









「ねぇ、挙式は早くしてもいい?」


互いの温度が溶け合った頃、ふと私は言い忘れていた事を口にした。

‥‥言い忘れたなんて、本当は嘘だけれど。
今ならいいタイミングだと思って。


「それは願ってもないが、奈々はいいのか?色々準備があるんだろ?」

「ええ、いいの。それに、この子は待ってくれそうにないし」

「‥‥‥は?」

「お腹が目立つ前がいいと思うの、着たいデザインのドレスが着れる内に。マタニティドレスも可愛いでしょうけど」

「‥え?ちょっと待て!それってまさか‥」



慌てる姿も愛しい。
この先は私だけが知る表情であればいいなと思いながら、彼の頬に短いキスをした。


「新婚早々お父さんになるのは嫌かしら?」


本音を言えば、まだ少しだけ不安になるけれど。

そんな不安も直後に包まれた熱で溶けてゆく。


「‥‥幸せだよ。ありがとう、奈々」





‥‥これからは優しい日々になればいい。


きっと大丈夫。

あなたが傍に居るから。






〜Fin.〜




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