───私はこれから、罪を犯す。
【15. この恋の距離】
「水嶋、こいつを部長室へ頼んでいいか?」
「はい」
「悪いな。手が離せないんだ」
「丁度手が空いたので、気にしないで下さい」
猫の手も借りたいとはまさにこんな状況を言うだろう。
バタついた職場の中、こちらを振り向く暇さえ取れない黒田さんに頷き、デスク上の書類を受け取った。
と、その瞬間ぐらりと傾ぐ身体──。
「‥っ!」
「水嶋?どうかしたか?」
「何でもありません。届けてきますね」
足を踏ん張ったお蔭で倒れずに済んだ。
相変わらず黒田さんの視線はディスプレイに向けられたままで、ホッと息を吐く。
これ以上この場所に留まると言い逃れが出来なくなるかもしれない。
逃げるが勝ちという訳じゃないけど、書類を抱え一目散にエレベーターを目指した。
「‥‥分かってるのよ」
エレベーターの狭小な空間にほっと息をついたと同時に、零れた独り言。
分かって、いる。
『───君は気付いてないようですが、おめでただと思いますよ。体調を崩しているのも、恐らく妊娠による貧血から来るものでしょう』
あの日手渡されたメモは、手帳の中。
弁慶さんの流暢な文字で綴られた病院と電話番号。
すぐに行動すべきだとは思う。
あれから何日も経ったけれど通院していない。
正確には「出来ない」でいる。
自分が怖いもの知らずと思った事はない。
けれど、こんなにも臆病だったなんて。
そう。私は怯えている。
この先に訪れる未来が、情けない程に怖い。
唇を噛んで俯くと、胸に抱えた書類が見えた。
黒田さんが徹夜で仕上げたそれらに、小さく労いの言葉を送りながらもう一度抱え直した。
この束は、言わば私達の三ヶ月間に渡る仕事の総仕上げ。
‥‥黒田さん、お疲れ様。倒れない程度に頑張ってね。
その書類の一番後ろに、用意していた紙を一枚滑らせて。
それから、部長室のドアをノックした。
「どうぞ。お、水嶋くんが持って来てくれたのか。ご苦労様」
「いえ‥‥お話もありましたから」
翌日と更に次の日、有休を取った。
直属の上司である黒田さんは、私の体調を酷く心配してくれていたんだろう。
「皆がまだ忙しい時に申し訳ないですが」と言えばすぐに「仕事は一段落したから大丈夫」と頷いてくれた。
部長とは重たい話をした直後だからか、細かい事は一切言わず「ゆっくり休め」と短くも優しい笑み。
この人達の部下で、私は恵まれていると心底思う。
病院の空き状況を確認し携帯の終話ボタンを押した後、玄関を開ける。
外は生憎の雨。
朝なのに空は灰色で、雑踏に混じる雨音が、気温よりも一層の肌寒さを感じさせてくれた。
これが晴天だったなら、少しは決心を鈍らされたのかもしれないから良かったのだと。
‥‥天気にまで縋りたくなる私に気付けば、零れる落ちるのは苦笑ばかり。
どうやら本当に精神が弱りきっているらしい。
これじゃ黒田さんも部長も心配するに決まってる。
最近の私は「私」らしくなかったものね。
診察を終えて、病院から出れば朝より強まっていた雨足。
こんな天気だからか病院の前に人の姿はない。
誰か、患者でも迎えに来たらしい車が一台、オレンジのライトを点滅させていた。
一刻も早く自分のベッドで眠りたい私は、少し離れたタクシー乗り場まで歩くことにした。
が、停車していた車の運転席側が開き私の足がぴたりと止まる。
ドアに邪魔されたのではなく、傘を持たず降り立った人物に驚愕したから。
「水嶋」
──今では、私の心を掻き乱す唯一の、声。
「有川くん‥‥‥誰に、聞いたの」
「話は後でいい。送るから乗ってくれ」
仕事中に見せる表情に近い。
何も伺えない、隙のなさ。
そっと、けれど有無を言わせない力で、返事の出来ない私の腕を取る。
私がイヤだと言っても、彼は私を車に押し込めるだろう。
助手席のドアを開ける時に見えた横顔が、それを物語っていた。
抵抗する気も起きず大人しく車に乗る。
すぐに反対側のドアが開き、やがてエンジンの音。
走る車の中、互いに始終無言のまま、私はひたすら横を向き窓を走る水の流れを見ている。
彼が迎えに来た。
此処に、病院に。
仕事はどうしたのだろうか。
一体誰に聞いたのか。
頭の中を巡ったのは一瞬だけ。すぐに、問題はそこでないと思い至った。
少なくとも、彼は知ってしまったのだ。
一体どう思ったのだろう。
知ってしまった彼はどう動くのだろう。
分からないから、苦しくて怖い。
いいえ、違う。
何も知らないからじゃなく、むしろ‥‥‥。
到着するまであと少し。
それ迄に平静心を保てる様に願いながら、また景色を見る。
けれど。
そんな願い虚しく、やがて見慣れた場所で止まる車。
重い空気、溜め息を吐きながらシートベルトに掛けた手は、やんわりと抑えられた。
「‥有川くん?」
顔を上げれば、間近に思い詰めた眼差し。
「水嶋、真面目に聞いて欲しいんだ」
これ以上にない位真面目な彼の、いつもより真剣な声音。
本音は、聞きたくない。
でも、聞かなくちゃいけない。
「何、かしら?」
これから告げられる言葉が怖くて、それでも。
‥‥それでも、怯えた表情を決して悟られてはいけないから、無理矢理自分を押し留めた。
「俺と結婚して欲しい」
言葉の衝撃を受けられず、強く、眼を瞑る。
「どうして?」
「‥‥父親が俺だと知りながら、責任も取らない男になる気はないんだ」
「‥‥‥」
馬鹿ね。
何故なんて聞かなくても分かっているのに。
彼がそう言うだろうって事は、弁慶さんと話した時に想像付いていたのに。
いつの間にか、私の両手は包まれていた。
長い指、けれどしっかりした男の手。
この手にどれだけ翻弄されてきたんだろう。
手だけじゃなく、全てに。
「弁慶さんから聞いた。病院から水嶋が来てないと連絡があったらしい。口を挟みたくないけど俺が責任持って連れて行く様に、って全て話してくれた」
「弁慶さんが‥‥そう。心配してくれたのね」
「正直驚いた。話して欲しかった‥‥‥だけど仕方ない。一人で悩ませて、それに気付けなかった俺が悪い」
ごめん。
そう言って頭を下げる有川くんの眼が、辛そうで。
きっと私に対する罪悪感とその償いで一杯なんだろう。
馬鹿ね、心の中で呟いた。
「謝らないで。ちゃんと言わなかった私が悪いの」
「違う!元は俺が‥っ!」
「もう、済んだ事よ」
更に言い募ろうとする彼に真っ直ぐ眼を合わせ、静かに首を振る。
そんな私に、もう一度。
「結婚しよう、水嶋。幸せにする」
‥‥ああ。
この手が包まれていなければ、振り解いて抱き着いたのに。
「‥‥ねぇ、有川くん」
でも、これで正解かもしれない。
温もりに触れたら、最後。
「あなたには悪いけど、私はまだ結婚する気がないの」
「‥‥は?」
声が、震える。
「私はまだ、誰かに縛られたくない。やっと大きな仕事を終えたのよ?これからが出世のチャンスなのに」
「何を‥‥兄さんには、」
「将臣の時はそうね、何も考えてなかったの。今は違う」
そう言うと、彼の眼が細められた。
「そうか‥‥‥だけど、仕方ないだろ?仕事を続けたいなら俺はそれで構わない。水嶋は大変だが、」
「有川くん、何か勘違いしているんじゃない?」
「‥‥勘違い?」
震えるのを押し殺し、彼の手を払う。
この先二度と触れる事は叶わない、有川くんの手を。
これでいい。
これで、いいの。
「病院に行ったのは事実、でも妊娠はしてなかった。安心した?」
「それは‥‥‥本当なのか?」
「私は一言も子供が出来たなんて言ってないでしょ。でも‥‥‥疲れちゃったわね」
レンズの向こうで真っ直ぐな眼差しが、そのまま時を止めた。
喉から出掛かった本音、言いたかった想いだけは伏せて。
今から告げる言葉で、私達は終わる。
「丁度いい感じでもうすぐ契約期間は終わるわ。だから、私達も終わりましょう」
始まりはお互い寂しいだけだった。
寂しさを埋めるだけ。
大人の繋がりなままだったら、きっと今も苦しくなかった。
互いに、忘れられない人がいたから。
これは恋じゃなく、楽な筈だったのに。
秘めた恋に‥‥気付かないでいられたら。
「‥‥分かった。水嶋が、望むなら」
「今までありがとう、とでも言った方がいい?」
「寒くなるからやめてくれ」
「そう言うと思った」
本心とは裏腹に沸き起こる笑い声。
助手席のロックを開ければ、今度は止められなかった。
彼にはもう止める理由がない。
私があなたに、縋る理由がないように。
「‥‥本当に好きな人に、ちゃんと伝えてね」
「‥‥‥?今、何て言ったんだ」
「ん?心配掛けてごめん、そう言ったのよ」
さよなら、と言ってドアを閉める。
彼が追いかけて来る事はない。
追いかけるのは私じゃなくて、ずっと愛していた望美さんなのだから。
彼が寝言で何度も呼ぶほど、忘れられない人。
少しは私にも情を持っているだろう。
短いとは言え何度も重ねた身体は、覚えている。
だから私にもあんなに優しかった。
だから‥‥「責任」と苦しそうに告げるあなたの優しさを、解放してあげたかった。
エレベーターが止まる。
ようやく玄関に辿り着いた頃、溢れる涙で危うい視界。
もう少し。
家の中なら思い切り泣けるから。
「‥‥っ、」
力が抜け崩れ落ちて座り込んで、漏れる嗚咽を抑えられない。
もう、終わった。
もう、此処にあなたが来る事はない。
もう‥‥あなたに触れることも、触れられることも、ない。
「‥‥‥さよなら‥っ」
あなたと添い遂げられたら‥‥。
一瞬でも強く望んだ、浅はかな私を許して。
一生をかけた罪を抱く、私を。
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