今思えば何もかも知ってるようで見えてない恋だった。

彼の本心に気付き苦しみながら、自分の心すら掴めていなくて。


決定的な破壊は、私が招いていたのだと。








【13. まるであの日のまま】








「黒田さん!」

「水嶋、どうした?」

「すみません。さっきお渡しした書類なんですが一箇所間違えてて‥」



帰宅しようとした黒田さんをロビーで呼び止め、明日の会議で使う資料の訂正箇所を伝えると、節くれだった指が書類上を辿り、一点で止まった。



「ここか。ありがとな、帰ったら直しとく。データはあるか?」

「い、いえ。私のミスですから私が」

「いやいや、忙しいのを知ってて作成頼んだのは俺だ。悪いと思ったんだが、水嶋の資料が一番良い。見やすいレイアウトはお前にしか出来なくてな」

「ありがとうございます」



素直に、褒めて貰えて嬉しい。



「ま、土日挟んでるから時間はある。俺がやっとくから水嶋はゆっくりしとけ。まだ本調子じゃないだろ?」



月曜はは定例会議がある。
本来なら部長以上の重役会議にチーフが出席出来ないのだが、今回は私達が携わっている企画の報告も兼ねている。

先月の中間報告、そして今回異例とも思える「終盤報告」。

最終的な演算と各メディアへの戦略展開、タレントや専門家の起用と経費、その他企業間取引‥‥。
その全てに関するデータを纏め上げて報告し、社長からの最終的なGOサインを貰う為の。
そこでサインが出れば、各専門が動く。
そうすれば、私達がするべき事は殆どなくなる。

それからの仕事の流れを見守るのは、チーフである黒田さんだけになるだろう。
漸く、此処までやって来れた。




その会議に出席するのは、この企画の統括者である黒田さんと、もう一人。



「‥‥すみません。では、ご好意に甘えて」

「ああ、お疲れ。明日には有川も帰ってくるから、せいぜいこき使ってやれよ」

「黒田さんがこき使う気でしょう?」

「ははっ、バレたか」



鞄から出したUSBメモリを受け取りながら快活に笑う。
そんな所が少しだけ将臣に似ていると、何度思った事か。

けれど、今の私にはただ黒田さんの笑顔としか映らない。



明日、帰ってくる。


胸の鼓動を狂わせる言葉を噛み締めた。














黒田さんに挨拶をした後、デスクに手帳を置き忘れていた事に気付き引き返した。

無事に回収して、エレベーターに乗り込む。


‥‥そう言えば、このエレベーターで乗り合わせた山崎さんと話をしてから随分経った気がするけれど。
まだ二週間も経過していないのだと気付く。

有川くんが北海道支社に行ってから、まだ、たったの十日。


なのに、こんなに長く感じるのは何故。



「よ、定時か?珍しいじゃねぇか」



自動ドアが開いた瞬間に耳に飛び込むのは、外の雑音。
それが日常で、けれど。
全て掻き消すような、耳慣れた声がした。

ざわめきを一瞬で消す、強い声音が。



「将臣‥‥どうして?」



会社のロビーから道路へ続く10段程の石段。
その脇の街路樹に凭れているのは、予想もしていなかった人物。

昔と何ら変わらぬ爽やかさで右手を挙げる彼が、何の用事で此処に来たのか。
一瞬驚いたがすぐに理解する。



「ちょっとだけ、いいか?」



頷き、近くの喫茶店に案内することにした。


皮肉なものね。
一週間で二度、それも前回は彼女と来たのだから。












店に入り先日とは違うウェイトレスに注文をした後、将臣が頭を下げた。
彼なら真っ先にそうするだろう。
と予測していたから慌てることもない。



「あいつ、お前に会いに来たんだってな。悪かった」

「気にしてないわ。望美さんと話が出来て良かったもの。用件はそれだけ?」



真実、良かったと思っているから笑って答えられる。

彼女に会った後は、確かに心が折れてしまいそうになったけれど。
お蔭で自分ですら気付かなかった心を知る事が出来た。

そんな私とは逆に、向かいの席で渋面を浮かべる。



「いや‥‥」



歯切れ悪く言葉を止め、一旦視線を伏せる。
彼の睫毛に店のライトが淡く光って、微笑ましい様な切なさが胸を苛んだ。


ああ、やっぱり兄弟なんだなと思ってしまうから。



「ちゃんと謝りたかった。俺の所為でお前を傷つけた事、な」

「‥‥うん」



あんなに好きだった将臣の全てが、今ではこんなに遠くて。
将臣の顔を静かに見ていられる。
悲しいほど、静かに。



「悪かった。勿論、謝って済む話じゃねぇ。それに、許して貰えるって甘く考えちゃいないさ。けど、」

「将臣」



そっと呼べば、私の話を優先させようと口を閉じて、眼を和ませる。
私が話しやすいように、いつも無言で促してくれた人。

その大きな手が頭を撫でてくれる日は、もう二度と来ないけど。



「将臣は、私を愛していた?」



その問いは、以前に彼の弟に聞いたものと同じ。
あの時の彼の様に、将臣もまた眼を閉じる。



「‥‥‥あぁ。本気だった」



本気だった。
その言葉が頭から足に向けて、全身を甘く狂おしく駆け巡った。



「‥だったら、もういいわ。私も将臣を愛していた」

「奈々?」

「もう、謝らないで。これ以上は私がみじめでしょ?それに私も謝らないといけなくなるけど」



にっこりと笑って見せれば、うっと言葉に詰まったらしい将臣の手がコーヒーカップを持ち上げる。
罪悪感に苛まれる彼に、仄かな勝利感が芽生えたことなどきっと知らないだろう。



「やっぱり、知ってたのね?」

「‥‥‥まぁ、な。悪かった。俺の所為だ」



そして、同じ程の罪悪感。



「違う!私の所為なの、だからっ」

「奈々、もういい。だろ?」



やはり彼は知っていた。

将臣以外に惹かれていた人が‥‥‥いた事を。












「遅くまで引きとめちまって悪かったな。送ろうか?」

「結構よ。別れた男に送って貰うのは死んでもごめんだわ」

「はははっ。こう言っちゃ何だが、奈々らしいぜ」

「私らしい?どこが」

「‥‥さぁな、教えてやんねぇ」

「は?」



二度と会うことはないだろう。

だからこそ、最後は普通でいたい。

フルフェイスを被る将臣もそう思ってくれたのか、本当に「いつもの様に」笑った。
キーを回し皮のグローブを嵌めた手が、エンジンを蒸かすのを見つめる。



「‥‥有川くんとは大丈夫?」

「心配するな。話はとっくに付いてるさ。つーか、お前さえ良ければ、元の関係に戻らないか?」

「元の?‥‥友達に?」

「あーまぁ、友達っつーか、家族っつーか。こう言ったら怒るか」

「‥‥‥そのうちね」



大好きだった。
この仕草も、大きな笑顔も、声も、全て。



「将臣、今までありがとう」

「‥‥‥奈々‥礼を言うのは俺だ。サンキュー」



バイクが大きな唸りを上げる。
割れていない真っ直ぐなエンジンの音。
彼がこのアメリカンバイクに惚れ込んで、大型二輪免許まで取った事も、記憶に残っている。



「奈々、      」

「───え?」



将臣の言葉は風とエンジンに紛れて聞き取り難かった。
私が聞き返した時には既に、その背は遙か前方に在る。


歩道に残った私は、意味もなく視線を空へ向けるしか出来なくて。






『奈々、譲を頼んだぜ』






「‥‥馬鹿。頼まれても無理よ」



将臣も望美さんも知らない。

私と有川くんの間には、恋も愛もない。

私は将臣を忘れる為に、彼は望美さんを忘れる為に。
限られた期間だけ慰めあっている事を。


───少なくとも有川くんはそう思っている。



彼の心は、望美さんのもの。

有川くんが幼い頃からずっと見つめていた人。
あんなに切ない眼差しをさせる人を、忘れられる訳ないのよ。
彼は今でも望美さんを愛している。
愛しているからこそ、自分よりも彼女の幸せを願ったのだと、私は知っているの。


最初からそれを知っていて縋りついたのは、私。






胸の奥が叫ぶ。

本当は、誰にも触れさせたくない。
渡したくなんてない。

彼が、好き。

将臣に抱いていた暖かく強い愛とは全く違う、苦しくて辛くて身が焼けてしまいそうな感情を、初めて会った日から持て余している。
気付かなければ幸せだったのかもしれないのに気付いてしまった今、どうして歩けば良いのだろう。



もうすぐ、企画の仕事が終わる。

同時に、秘密の関係もタイムリミットを告げている。












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