恋愛とは不思議なもので、学習能力を奪ってしまうらしい。

ほんの三ヶ月ほどで、私は二回も恋をするとは思ってもみなかった。








【14.指先からすり抜けるように】







将臣と久々に会った後。

帰宅した私はご飯を作る気になれなくて、適当に冷凍庫を漁った。
丁度先日買い溜めしていた冷凍食品の群れからドリアをレンジに入れる。

こんな所を彼に見つかれば怒られそうだ、なんて思うと何故か笑みが零れた。




──水嶋も料理は結構出来るんだからな。勿体無いだろ?




いつだったか、うちに来た時に彼はそう言って頬を撫でてくれた。

仕事上で知っていたクールさは嘘の様に、控えめに笑う彼。
会社でもこうだともっとモテるでしょうに、と心の中で呟いた事がある。

それを面と向かって彼に言わなかったのは、奥底に隠された嫉妬だったなんて。



レンジが加熱終了を告げ、それなりに美味しそうなドリアを取り出した時、ソファに置いた携帯が鳴った。



澄んだ女性の声で、素直になれない戸惑いを切なく歌う。
少し前に流行ったJ-POP。

彼専用にと設定したのは、番号を交換してすぐのこと。
なのに、まるで今の自分を予言しているみたいで皮肉だった。




通話ボタンを押して、はい、と告げる前に。



『水嶋』



‥‥いつもの様に呼ばれた名前。
今となってはずっと聞いていたいと、思わせるその声を。



「有川くん‥確か今頃は送別会じゃなかったかしら?」

『いや、明日の朝一の便で出立すると言って断わった。それより体はどうなんだ?』

「もう大丈夫よ、ありがとう。‥‥それにしても、投げ出すなんて余程大事な仕事でもあるのね」



北海道支社でのトラブルが思ったより早く解決した。
その上ついでに他の仕事のいくつかも終わらせてくれた、と支社長が感激して部長に電話をかけて来たことは、私も今朝聞いている。
今晩は支社から盛大な送別会を有川くんにする予定だとも。



『まぁ、そんな所だ。それで明日だけど、少し会えないか?』



‥その後に続く言葉を。
一瞬期待をしてしまった私の浅はかさを、振り払う。



「‥土日は友達と約束しているの。最近何かと忙しかったから」



言外に、あなたとばかり会っていたから他の暇などなかった、と想いを滲ませる。
受話器の向こうで、小さく震える笑い声。



『確かにそうだったよな』

「そうよ。だから、月曜でもいい?」

『ああ、じゃぁ月曜に。おやすみ』

「‥‥おやすみ」



短い通話を終えた携帯にもう一度耳を当てる。

彼の言いたい話の内容は。想像付いていた。


もう少しだけこの関係を長引かせて。
もう少しだけあなたは、私の事を考えていて。

一部だけでも、私に縛られていて。

今だけでいいから。














土曜の午前中は気怠くボーっとしていた。
だからと言って疲れが取れる訳でなく、逆に気分まで沈んでしまった。

そんな自分を叱咤して、ベッドから飛び出したのが昼過ぎ。

有川くんに嘘を吐いたのだから、せめて余計な事を考えないでいよう。
仕事とは違うナチュラルなメイクに時間をかけてから、外に出た。




最近寝不足で、体がふらつく。
治りかけの風邪は食欲も衰退させた為、体力が落ちているらしい。

昨日の電話で、正直に言えば弱っている姿を見られたくないのもあった。
有川くんは優しいからきっと心配する。

流石にそれは、今の私には辛いから。




「あ!奈々ちゃん!?」

「‥‥あ」



好きなショップの新作キーケースを衝動買いして、少し上がった気分は、一気に萎む。
肩を叩いて振り向かせたのは、一度だけ会った事のある人。



「‥こんにちは」

「久し振り〜っ!コンパ以来だよな?一人?」



ああ、面倒なのに掴まった。

溜め息が生まれそうになるのも仕方ない。
目の前に立つ彼に、決して良い印象を抱いていないから。
合コンの帰りに駅まで送ってきた人だった。



「連れと待ち合わせをしてるから急いでるの。退いてくれない?」

「振られてやんの、お前!」

「煩いって!」

「連れ?女の子だったらさ〜、俺達も混ぜてよ」

「やーめろって!‥‥まぁでもそういう訳だからさ、ちょっとだけ話をして欲しい」



どうやら彼、いや彼らは三人らしく非常に軽いノリの癖に、掴んだ私の腕を離そうとしない。

‥‥どうやって振り切ろうか。このままだと身の危険を感じる。



「──離して‥‥」




半ば叫ぶように腕を思い切り振り上げれば、ぐらりと眩暈がして。
頭に響く程の激しい胸の動悸と、ぐらぐら揺れる視界が全身の力を奪って行く。

倒れてしまう。



そう思った時、力ない背中を誰かが支える感触。
ふらついた背中ごと誰かが受け止めてくれた。



「奈々さん!」



何処かで聞いた事がある声がして、その声の主が支えてくれたのだと気付いた。
少し頭を下げさせて、その肩に凭れさせてくれる。



「あなた達!この人に何したのっ!?」




そこから先はあまり覚えていない。



ぼんやりと、陽だまりの匂いに包まれる中で。

私を支える腕と反対の手が振りかざした、白い紙に書かれた紋様。

───それが最後に見た光景だった。














「‥ ‥‥ ‥‥でしょう?」

「うっ、でも仕方なかったんだもん‥奈々さん見たら怒りで我を忘れたというか、ぶちっと来ちゃったというか」

「‥‥それで、場の全員に束縛術とは‥‥‥僕が駆けつけた時、どれ程驚いたか分かりますか?」



はぁ、と溜め息が聞こえる。
呆れと優しさを含む艶のある声は、最近何処かで聞き覚えがあった。

理解できない単語に、頭が付いていかないけれど。



「まさか、全員倒れるとは思わなくてっ!‥‥ご、ごめんなさい!」

「‥‥‥‥まぁ、君と彼女が無事で良かった、という事にしておきましょうか」

「弁慶さんっ‥!!」



それからもう一つの女の子の声。
この声は、私を助けてくれた‥‥?

誘われるようにぼんやりと瞼を押し上げる。
途端、飛び込む照明の光。反射的に眼を閉じ、もう一度開く。

こちらを見ていたらしい人物と眼があった。



「あぁ、彼女が起きたようですよ」

「えっ?‥奈々さん、大丈夫ですか!?」

「‥‥‥ゆき、さん‥‥?」

「どこか痛む所はないですか?」



ゆきさんが今にも泣きそうな顔で、私の手を握っていた。
その隣で痛む所が無いか訊ねる弁慶さんに小さく頷けば、握った手に力が籠められた。



「良かった‥」



‥‥ああ、やはり。
助けてくれたのは彼女だったの。


あの場からどうやって逃げ出せたのだろうか。
何故あの場に彼女がいたのか。

まだ曖昧とした頭で疑問に思えば、それを感じ取ったらしい弁慶さんが口を開く。



「どうやら妻はたまたま買い物の帰りに、君が絡まれているのを発見したんです。彼らは君の知り合いだと主張していたんですが、妻にはそう見えなかったらしいので、独断でこちらに運ばせて貰いました。‥‥‥ですが彼らが本当に君の友人なら、お詫びしなければいけませんね」

「いえ、絡まれていたのは本当なので‥それに、知り合いと言うほどでも」

「‥‥そうですか。ああ、彼らは僕が重々注意しておきました」



綺麗な笑顔の隣で、「注意」の単語辺りでびくりと震えるゆきさんを見る。

視線に気付いたらしくこちらを向いた彼女に、頭を下げた。



「助かりました、本当に。ありがとうございます」

「いえ、当然の事ですから」



笑いながらすぐさまそんな答えが返ってきた。
見る人を暖かくさせるような、そんな笑顔に釣られて私の口端も持ち上がる。



「あ、私お茶でも淹れて来る!奈々さん、ここは私達の家だから安心してゆっくり休んでくださいね」

「‥はい」



パタパタと慌しく室外へ続く足音。
それが聞こえなくなるまで扉を見ていた弁慶さんが、ベッド脇の椅子に腰掛けたまま微笑んだ。

愛しい、と空気全てが物語る甘い視線。



「すみません。ゆきさんに無理をさせてしまって‥」

「君が謝る必要はありませんよ。彼女の性格はよく分かっているので」



これ以上は二人の領域だから入らなくて良い。そう伝わってきて私は俯く。
言葉の無い領域で伝わる二人の信頼関係が、羨ましく映って。



「‥‥そろそろ、本題に入らせて頂きますね」

「‥‥‥え?」
















足元が崩れ去ったように

ただ、ただ


‥‥静かな眼差しを、受け止めた。

















「水嶋!」



沈黙を破るように些か乱暴気味に開かれたドア。

息を切らしながら部屋の中に足を踏み入れる人物に、眼を見張る。



「随分早かったんですね、譲くん。ゆきが電話してからそう経ってないですし、そんなに急いで事故に遭ったらどうするんですか」

「大丈夫です‥‥それよりも、水嶋は」

「軽い貧血なので心配いりませんよ。では、僕は席を外しますね。ゆきを手伝いたいので」



気を使ってくれたのだろう。
部屋を出る前に合った眼差しが、私の背を押すように強く頷く。
ゆきさんの分も感謝を込め、ぱたりと閉じられたドアの向こうを見送れば、空いた椅子がきしりと鳴る。



「電話、受けて‥‥水嶋が貧血で倒れたって‥‥‥驚いた」

「‥‥ごめんなさい。最近少し貧血気味だったの」



椅子に座り、肘をベッドに乗せ祈るように組んだ手の上。
そこに伏せた有川くんの頭からは表情が見えないけれど、彼が心配をしてくれたのだと、それだけは伝わる。

席を外したゆきさんが電話をしたのだろう。

いつもの隙が無い私服が乱れていて、愛しさを募らせる。



「だから、無理するなって言ったよな、俺は」

「そうね‥‥ごめんなさい」



その、深い緑の髪にそっと指を潜らせる。

さらさらと指を滑る髪の一筋まで、この指を流れていく髪の全てを愛しく思った。








少なくとも、心配してくれた。

こんなに急いで来てくれるほど、私の事を思ってくれている。




‥‥‥それが、恋じゃなくても。

彼の愛する人は私じゃない。

でも、私のことも少しは大切だと思ってくれている。そうでしょう?



「まだ風邪が治りきってなかったんだな。頼むから無理をしないでくれ」

「‥‥そうね、迂闊だったかも。ごめんなさい」

「いや、何度も謝らなくていい。何も無くて良かった」

「うん‥ごめんなさい」



もう一度謝ると、不服そうに顔を上げた有川くんの、その唇に唇で触れた。


これまで、私達は何度キスをしただろうか。
少ないのか、多いのか。普通の恋人と比べてどうなのかすらもう、分からないけれど。



きっとこれは、あなたへの想いを自覚して初めてのキス。














『優秀な病院を紹介しましょう。君は気付いてないようですが、おめでただと思いますよ』





───あなたが好きなの。

強く抱き締めてくれるこの腕も。


冷たさと熱の両端を併せ持つ、酷くストイックな眼差しごと。


愛しすぎて、私は溺れている。





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