「黒田さん、はい。女子一同から」
「おっ、悪いな」
企画部は女子社員が少なく、男性社員が多い。
義理とは言え無視できないのが今日の行事。
当然、企画担当の私や事務の子達が合同でチョコを買い、朝早めに出勤して手分けして渡す事となる。
男性社員もすっかり恒例となったこの朝の為に、少し早く出勤‥‥まではないものの、和やかな空気。
私の担当は、私が座るデスク周辺の人達。
まさに今から出張に出る先輩の黒田さんもいて、急ぎ手渡した。
「‥で?水嶋、旦那はいいのか?」
真剣な顔で手招きするので、何かと思えばそんな事か。
悪戯っ気に顎を向けるから釣られて見れば、丁度事務の子がチョコを渡していた。
呆れた溜め息が生まれる。
「‥‥有川くんは旦那でも彼氏でもありません。何度も言わせないで下さい」
「んな事言って、他の奴に取られても知らねぇぞ?」
だからどうしろと言うのか。
私達はそんな関係ではないと、何度も説明しているのに。
「ご自由に。そんな事言って、黒田さんこそ知りませんよ。バレンタインに彼女放っておいて、いいんですか?」
山崎さん、モテますから。
最後の部分は誰にも聞こえないように言って、言葉に詰まった黒田さんに背を向けた。
‥‥何を煽っているのか知らないけれど、そっとしておいて欲しい。
【06. 想いが弾ける刹那に】
昼休みが終わった時だった。
会社近くの洋食屋で今日限定のオムライスを食べに行こうと、総務課の事務の人に誘われ、その帰り。
大量の作業が待つ身なので急いでいたけれど、エレベーターを降りた途端に足が止まった。
「有川さん、受け取ってください」
彼女は確か『先月人事部に入社した可愛い事務』と、男子社員が噂していた‥‥。
小首を傾げた仕種は、男性の好きなそれだとは思う。
実際に横顔しか見えない私でも、素直に可愛いと頷ける。
‥‥頷けるの。
今、通行の邪魔なのは困るけれど。切実に。
通りたがっている私にやっと気付いたのか、その時ちらりと私を見た彼が、眼を見開いた。
声に出さず口の動きだけで、「邪魔してごめん」と伝えて。
二人の横を素早く通り過ぎる。
有川くんにしては珍しく固まっていたような気がした。
けれど、書類の作成で頭が一杯だった私は、彼の表情なんて気にしていられなかった。
デスクに着いてすぐPCを起動する。
画面が表示される迄の間に引き出しから必要な書類を出していると、手が滑ってしまった。
バサッと音を立て床に散らばるファイル。
‥‥‥どうしたの、私らしくないじゃない。
椅子から降りて拾おうとしたが、その前に伸びた手がファイルを攫う。
「ありがとう」
「いいえ。水嶋さん、俺聞きたいことがあるんですけど」
後輩の男子社員からファイルを受け取りながら、その調子良い返事に苦笑した。
「どうしたの?」
「あ、仕事の事じゃなくて!その‥‥水嶋さんは、誰かに本命チョコを渡すんですか?」
「‥‥‥はぁ?」
‥‥また、この手の質問?
黒田さんといい、私が誰に何を渡そうが勝手だと思うけど。
「いえ、もしかしたら〜とか、期待してる訳じゃないんですけど!」
「‥‥‥」
「俺じゃないなら、誰にも‥‥‥って!何言ってるんだろう」
‥‥これは黒田さんに何か吹き込まれたとかではなく、
後輩自身の‥‥所謂、アレだろうか。
好意を寄せて貰っていると解釈していいのだろうか。
「誰にも渡してないわ。今は恋愛したいと思わない」
「よしっ!」
ハッキリした言葉で聞きたいと思わない。
けれどいろいろ遭って女として自信を失くしていただけに、今の嬉しそうなニュアンスだけで、私もほんの少し嬉しくなる。
‥これで充分だった。
「水嶋、この書類の算出を頼んでもいいか?」
「見せて」
有川くんが持ってきた書類には、細かい項目がずらりと並んでいた。
ざっと眼を通しデスクに置いた腕時計を見る。
現在15時。
自分の仕事を済ませてからだと‥‥‥終わるのは、遅い晩御飯を食べ始める頃だろうか。
残業は確実。
でも彼が仕事を頼んで来るのは素直に嬉しかった。
私を認めてくれている証だろうから。
「いいわ。私が仕上げておくから」
「悪い。黒田さんの代わりに会議に出なければいけなくなったんだ」
「来週まで出張だったものね。気にしないで」
「ありがとう、水嶋」
受け取った書類をクリアファイルごとひらひらと振って見せれば、有川くんは少し笑った。
「終わったー!‥‥と、もうこんな時間」
チェアの背を一杯まで反らし伸びをする。
片手間だとか思ってなかったけれど、予想以上に手こずらせてくれた予算の算出。
プリントアウトを終えた書類を睨め付けながら、指で軽く弾いた。
苦戦した分、達成感を感じるこの瞬間が結構好きだったりする私は、マゾヒストだったりするのだろうか。
「堅苦しい数字ばっかりね。まるで有川くんみたいだわ」
「‥‥どういう意味なんだ?」
「っ!?びっくりするじゃない」
‥‥‥背後から唐突に声を掛けるのは、止めて欲しい。
私のデスクの背後、壁に背を預けて立っている有川くんに苦情をぶつける。
「‥‥‥そんなつもりは無かったけど、つい昔の癖が出た」
昔の癖って‥‥どんな事をしていたのやら。
聞けば教えてくれたのかもしれない。
けれど、聞いてどうするの。
「‥‥‥そう。ところで、随分と会議が長引いたのね。お疲れ様」
───彼をこれ以上深く知ってはいけない───
心の中で掛けられるブレーキ。
素直に聞き入れ、彼の言葉を流した代わりに、彼自身の疲れた様子を気に掛ける事にした。
普段は一分の隙もない襟元が乱れている。
それは非常に珍しい光景なのかも。
PCの電源を落とす作業をしていると、深い溜め息が後ろから聞こえた。
「‥‥‥会議というよりは、その後が疲れたのかもしれないな」
「その後?何かトラブルでも?」
「あぁ、いや‥‥何でもない」
‥‥なるほど。
濁した語尾で気が付いた。
会議を終わるのを待っていた女子社員でもいたのだろうと。
鞄とコートを掴み椅子から立ち上がった私は、そのまま有川くんの正面まで歩いた。
「モテる男は大変ね」
「‥‥‥からかわないでくれ」
下から覗き込めば心底困りきった表情に、昼休みの光景が脳裏を過ぎる。
あれ程可愛い女子社員から手渡されて、謙遜する気なのか。
世の男性が聞けば、かなり嫌味になると思うけど。
「義理以外は全部返したから、時間が掛かったんだ」
「そうなの?勿体無い。取り敢えず貰っておいて良かったんじゃないの?」
「俺は欲しい人からしか貰わない主義だから」
「‥‥そう」
思いも寄らない言葉。
蛍光灯の下、俯いたままで。
そうなんだ。
欲しい人、という事は‥‥‥。
彼はまだ、別れた恋人を引き摺っているのか。
私がまだ、ほんの少し‥‥引き摺っているように。
「‥‥‥有川くん」
そっと名を呼んでから、背伸びする。
僅かに触れさせた唇。
「っ!‥‥水嶋?」
「今年はお互い代理だけど。バレンタイン、仕切りなおしましょう」
有川くんの一番欲しいものではないだろう。
けれど、彼の苦しさを埋めたいと思った。
‥‥私が今日、去年の思い出に囚われないで済んだのは、有川くんのお陰。
だから今晩は、私が彼を癒してあげようと。
「水嶋は、他に誰もいないのか?」
「嫌味な人ね。いないから誘っているんでしょ。帰りにチョコケーキでも買って‥‥‥んっ」
ぐっと引き寄せられた身体は、強い力で抱き締められた。
「だったら、代理でなくていい」
‥‥‥それは、どういう意味?
聞こうとしたけれど、即座に塞がれた唇から言葉が発せられなかった。
こんな時間とは言え、此処はオフィス。
いつ、どんなタイミングで誰がやってくるか分からないのに。
意地悪に呼吸を奪い、焦らされて‥‥かと思えば急に優しくなって。
そんな痺れるキスは簡単に理性を飛ばす。
「奈々っ‥!」
「‥‥っ、あ‥やぁっ‥‥」
───乱された服。
いつの間にか、背中に感じる堅い壁。
その分を補うほどの熱と快楽。
有川くんの性急な動きに包まれて、
今だけは彼を満たすのが、繋がっている私であれば‥‥と願った。
私達は身体だけの関係。
それ以上では決してない。
寂しさを埋めあう為に身体を重ねあった。
互いに時期と欲が一致しただけの、愛や恋なんて存在しなくていい気楽なもの。
切なさと真実を押し殺した
期間限定の、秘め事。
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