「お久しぶりですね、譲くん」



事務所のドアの向こうで、柔らかな微笑を浮かべていたのは


腰を抜かすほど綺麗な‥‥男性だった。








【06. 空が堕ちるほどに】









「それで、僕に何を求めているんですか?君が起業する話ではないようですから」

「いずれ考えるかもしれませんが、俺には今の仕事で手一杯なので」

「それは勿体無い。君の才能が泣きませんか?」



有川くんと旧知の仲らしい。


この事務所を経営している男性は、「弁慶」と言ういかめしい名を名乗った。
芸能人かホストでもしていたのだろうか?



「本名ですよ、水嶋奈々さん」

「‥‥‥」



‥‥‥まだ何も言っていないのに。



「ふふっ。初対面でそう思う方が多いので」



私達をソファーに座らせてから自分も座り足を組む。

女の私が裸足で逃げ出したくなる位に綺麗で洗練された人。



それから暫く彼ら二人で‥‥‥軽口だろうか?
何やら楽しげに応酬しているのを、私は黙って見ていた。



黙っているのは、此処にきた理由が全く謎のままなのと。

有川くんの寛いだ表情に、そんな表情を引き出す人に、何故か苛立ちを覚えたから。

‥‥何を苛々しているんだか、私は。








「‥‥‥水嶋?」

「え?‥‥あっ、ごめんなさい、つい」



またぼんやりとしていたようだ。
考え事に耽って、つい話を聞き逃したらしい。



「いや、それは構わないけど、熱でもあるんじゃないか」

「‥‥っ!?何でもない」



そう言って、額に触れる手‥‥。

過剰に反応してしまった、らしい。

びくりと身体を震わせて。
そんな自分を恥じて視線を上げれば、心配そうにこちらを見つめる栗色と眼が合った。




「辛いようでしたら水を持ってきましょうか?」



‥病気と勘違いさせてしまったのだろうか。

深い深い眼差しに、まるで医者に診察されるような気持ちになった。




「何でもないんです。少し寝不足で‥‥‥すみません」

「そうですか。あまり無理はなさらないで下さいね」

「はい」



この笑顔は凶器だと思う。

これ程綺麗な笑みを向けられて、ドキドキしない女が居れば見てみたい。
それこそ病気だろう。



隣で深い溜め息が聞こえてきた時、事務所の奥からノックする音がした。

どうぞ、と弁慶さんの返事と同時にドアが開く。



「弁慶さん、お茶どうぞ‥‥‥‥って、有川くんっ!?」

「元宮?今日はこっちに来てたのか?」



栗色の長い髪の女性が、盆を両手に顔を輝かせて入ってきた。



「あ、うん。弁慶さんがどうしても来て欲しいって言うし、定休日だし。じゃなくて、久しぶりだね!」

「そんな事ないだろ?二ヶ月前に新居に行った筈だけど」

「ええっ!?二ヶ月は久しぶりだって!それにあの時は有川くん勝手に帰ったくせに」

「それは元宮が弁慶さんとっ──‥‥」



言いかけて口をつぐんだ有川くんと、「しまった」と決まり悪げな表情で固まる彼女。

親しげな様子に胸が雑音を奏でる。

けれどその感情以上に、私の中で引っかかった。


彼女とは、初めて会った気がしない。
何処かで見知っている‥‥‥?



「‥‥‥譲くん?ゆきと僕がどうかしましたか?」

「い、いえ‥」

「ほら、正直に言った方がいいですよ。溜め込むのは身体に毒ですから、ね?」




思ったことがストレートに表情に出るらしい彼女の横顔を、じっと見ていた私は、その場を包み始めた圧迫感に気付かないでいた。

それが美人で柔和なスーツの男性が原因だと言うことにも。



「べ、弁慶さん!有川くんが真っ青だよ!」

「ああ、本当だ。薬が必要かもしれませんね、僕が用意しますよ」

「もう!それ本気で怖いんだから止めてって言ってるのに!ほら、お客さんも居るんだから‥‥‥‥‥あれ?」



首を傾げる私をじっと凝視してくる、大きな眼。



「ああっ!カツサンドのお客さん!?」

「駅前のパン屋さんの‥‥店員さん?」



何処かで見たことがあるのは当然。
殆ど毎日顔をあわせているんだもの。

エプロン姿でないからか、全く分からなかった。












「彼女はゆき。僕の妻です」

「ええと‥‥初めまして!ゆきって呼んで下さい」

「水嶋奈々です。私の事も奈々と呼んで貰えれば」

「‥‥え?水嶋って‥‥‥‥‥あぁ、そっか」



私が名前を告げると、彼女は一瞬眼を見開いた。

やや間があって、それは柔らかな微笑に変わる。


つい数分前、彼女の夫に挨拶した時同じ光景を見たが、私の名前に何かあるのだろうか。






ソファーに夫妻と向かい合う形で座り談笑して、まず驚いた。

十代‥‥贔屓目に見ても二十歳位に見える可愛らしい彼女が、私や有川くんと同じ歳だったこと。
先に年齢に関する発言をしなくて良かった、本当に。



それと、あの店は夫である弁慶さんの支援を受け彼女が経営していることにも驚いた。

あの「元気が出る魔法のパン」はゆきさんの新作だとか。



何から何まで驚かされてばかりだった。













暫く和やかなムードに浸っていたが、そこまで。

急に我に返ったかのように、重大な事柄を思い出した。



「ねぇ、私達は仕事の話に来た筈よ。本題に入らなくては」



そうだ。
あくまでこれは仕事でやって来た。

アットホームな空気に流されて、つい本題を忘れかけていたが、有川くんも「仕事」だと断言していたのに。


腕時計を見ればもう、六時を過ぎていた。
これでは話に入る頃には深夜になりそう。


私の焦りとは裏腹に、彼もまたちらりと腕時計を確かめた。



「‥‥そうだな。そろそろ帰ったほうがいいか」

「待って。仕事の話をしていないのに」



真面目な彼とは思えない発言に、唖然とする。

そんな私を見て、有川くんは柔らかく微笑んだ。



「ああ、話ならもう済んでいるから」

「‥‥え?」

「ええ。譲くんが来た時点で。返事は一週間後と言いたい所ですが、三日で頑張りましょう。それでいいですか?」

「すみません。助かります」

「いいえ。貸し一つということで」



いつ、どこで、なにを話したのか。

いや、今までの二人の口振りを思い出しても、肝心なことは何一つ話していない。


実際に目の前で繰り広げられていたのは、私にはどうでもいい昔話。
仕事のことなど全くと言って良い程話題に上がっていなかった。






それなのに、もう用件は終えたと言う彼ら。


綿密な打ち合わせを終えたかのように、もしくは大きな仕事を成功させた後のように。





‥‥‥ああ、まただ。





笑顔に見送られ事務所のドアを開けた時、夕陽に心臓がチリッ‥と焦がされたような錯覚を覚えた。






















「結局教えてくれないままなのね」

「そんなつもりはなかったんだ、弁慶さんに説明する時に一緒に聞いてもらう予定だったから」

「仕事を組んでる人間に対して、それは随分な扱いじゃない?」

「それは悪かった。謝るよ」



あの事務所を訪れたのは、弁慶さんの伝手を当たる予定だった、と教えてくれた。
その内容を聞けば、私は驚かずに居られなくて。

コンサルティングとは無関係な、いわば個人的な依頼というか。

交渉すら難しいと専ら評判のとあるタレントとの面会を依頼し、弁慶さんは三日でと返事をした、との事だ。

何処までも謎な人だ。そう思った。








「それはそうと直帰にしておいて良かったわね」

「時間が時間だ。帰社していたらそれこそ残業と変わらない」



助手席に座り、落ち着かなく視線を彷徨わせていた。

だって、そうでもしないと嫌でも視界の飛び込むから。










ハンドルに添える、長い指。











湧き上がる欲に眩暈がして。

車内の温度が、上がった気がした。



「水嶋の家は次のインターで降りるのが一番近いんだよな?」

「別に送ってくれなくても、近くの駅で降ろしてくれていいわ。有川くんの家には遠回りになるじゃない」



早く降りてしまいたい。



触れられたいと、触れたいと渇望するこの欲を、
‥‥彼に欲情している私に気付かれる前に。




「遠回りでも構わない。水嶋、俺は──」




言葉を一旦区切って、躊躇うように私をちらりと見た。
ただそれだけで、私は‥‥‥。




「水嶋の送り狼に、なってもいいか?」



触れたい。

触れられたい。

重なり合って、心の空洞を埋めてしまいたい───。


苦しい想いを捨てたいのも、独りの夜がやるせないのも‥‥‥彼も同じなのだ。

同じ痛みを持つ同士、慰め合う。
それが良いのかどうかは分からない。


けれど。
この身体に溜まった熱を隠す必要なんてないのかもしれない。

‥‥‥彼にだけは。



「‥‥‥なって、送り狼に」



















軋むベッド。
静寂の中、お互いの荒い息遣いとキスの音が、二人だけの世界なんだと実感させる。


長い長いキスが身体に火を灯し、身体中を手繰るように這って行く指。


‥‥こんな風に触れるんだ。

余裕のない荒々しく、でも‥‥緩急を付けて時々優しく弄んでくる。







我慢の限界。
彼の動きが止まったのはそんな時だった。




「‥‥‥ごめん、水嶋」




期待と焦れったさを残し離れた唇が、私に語るのは謝罪。



「‥んっ‥‥何に、ごめん?」

「全部、かな」




何に謝ったのか。
よく分からない。


けれど、何故か苦しそうで。
切ない眼で、私を見下ろしてくる。

だから‥‥




「何も‥‥‥考‥ない、で」

「水嶋」

「来て‥‥‥ぁっ‥‥おねがっ‥」

「‥‥ああ」




隙間なく繋がった彼の熱さに、

意識が飛びそうになった。





 


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