家に帰ってもずっと身体が熱い。






女として最後に触れられたのは別れる一月程前だったから、久しぶりともいえる感覚に酔っているのかも知れない。




背を抱く腕


頭を支える手


頬を撫でる指先‥‥‥



そしてキスさえも、何もかもが彼と違った。



激しく奪うでも、与えるでもない





‥‥‥身体が火照って疼く、焦らされたキス。










【05. 痛みを伴う予感】











あれから三日経った金曜日の朝。

取引先の挨拶や打ち合わせを無事に済ませた私達の仕事は順調だった。
予め組んでいたスケジュールを難なくこなして行く。



それには勿論、私も貢献できている‥‥と思う。

決して手を抜かないし、組んだ相手の足を引っ張らないだけの実力もあると自慢じゃないが思っている。
そうでなければこの厳しい業界で残っているのは辛いから。



だが、今回ほど調子よく進んだ事はなかった。
素直にそう認められるのは、たった一週間で仕事振りに尊敬を寄せた、有川譲のお陰。






その才能に惹かれた社長自ら彼を引き抜いた、と言う噂も今なら納得できる。






「はい‥‥はい、了解しました。伝えておきます‥‥‥お疲れ様でした!‥‥‥あ、水嶋さん!」



携帯を閉じた部署内の後輩社員が、出社したての私を呼び止めた。



「おはよう。早いのね」



コートを脱ぎながら聞くと、彼は黒田さんのデスクに行き、机上の茶封筒を取った。



「黒田チーフから、この書類を有川さんに渡してくれと」

「ありがとう。黒田さんは直帰って?」

「訪問先は遠方らしいですよー。俺にプレゼン資料作っとけって‥‥‥今夜は残業です」

「大変ねー、黒田さんのチェックは厳しいもの。頑張ってね」



はは、と力なく笑う後輩の背をポンポンと叩き励ます。



「水嶋さんっ!俺頑張ります!」

「いいから離して」



他愛ない励ましによほど植えていたのか、両手を押し抱かれた。

そんなに残業が辛いのか。
ご愁傷様だけど、思い切り握られているから結構痛い。
どうにか逃れようと、この手を強く振り払おうとした。



「朝から何してるんだ」



このタイミングで背後から声が掛けられる、既視感。
ついこの前も同じようなシチュエーションがあった気がする。

後ろから私の肩越しに伸びた腕。
後輩に包まれた両手を剥がしてくれる。




「っ」




引っ込める時、ほんの一瞬、頬を掠めた‥‥‥指。


不意に思い出してしまった熱の残像。




「あ、有川さん。おはようございます!」

「ああ、早いな」

「そうそう、聞いてくださいよー!黒田チーフってば俺に対して酷いんですから」

「落ち着けよ。聞くから少し待ってくれ」



有川くんが現れたことで矛先が変わったらしい。
「黒田さんの残業の押し付け方」を愚痴り出す後輩。
デスクに鞄を置きながら、有川くんは軽く相槌を打っている。



こうしてよく見ると、冷たい人だという彼の印象に違和感を覚えた。

仕事を始める前だからだろうか?
張り詰めた空気のない彼は普段より柔らかく見える。



こんな風に他愛のない愚痴なんて、聞く耳持たない人だと思っていた。

それは私や周りの一方的な思い込みだったのだろうか。

後輩の表情を見れば瞭然だ。
慕われているのだと。



「‥‥‥」



まだ続く後輩の話を聞きながら、するりと彼の腕からコートが離れていく。
それを何気なく眼で追っていた私。
直後思い切り眼が合った。



「き、昨日はよく眠れた?」



今、私はどんな顔で彼を見ているのだろうかと心配になった。
耳も頬も熱いから。

咄嗟に声に出した問いは拍子抜けていて、
我ながら何て事を口走ったのだろうと、頭を抱えたくなった。



「昨日?‥‥‥酒に付き合わされたから、あまり寝てないな」

「そうなの?お‥‥‥お兄さん、と?」

「‥‥‥ああ」

「‥‥‥そ、そう」

「それよりも今日の行き先は覚えているか?問題ないなら資料作成を頼む」

「問題ないわよ。意地悪いこと言わないでくれる?」



今日訪問する事務所の住所などは予め調べている。

それに付いて聞きたいことは山ほどある。
けれど、後輩や他の人の居る部署内で質問していいものか。


「意地悪い」と言ったのは、その事への当てつけだったりする。




‥‥けれど、お陰で助かった。

さっきの居心地の悪さを吹き飛ばしてくれた事に、こっそり感謝した。
有川くんには絶対に言えないけれど。




「じゃぁ俺も仕事します」

「ああ」

「残業、頑張ってね」



ありがとうございます!と後輩が席へ戻ったのと同時に、私も資料作成に取り掛かった。





















「コンサルティング事務所、ね。この仕事との関連が掴めないんだけど」


助手席でシートベルトを締めると、車は滑らかに発進する。
二人だけの空間になって漸く気になる事を口にした。



ある事務所に16時にアポを取ったから、訪問した後は直帰する。

そう聞かされたのは昨日の終礼後だった。


何故コンサルティングなの?

と聞いても、明日になれば分かるよ、とまともに返してもらえないまま、事務所名と住所を控えた紙だけ渡された。

帰宅してからネットで調べるも、疑問が深まるばかり。


何故?
CM作成の仕事に企業経営への相談が必要なのか?
取引会社の経営が危ないとか?いや、それは有り得ない。
そうならば既に部長から何らかの話が来ている筈だから。



本当に、何の為に?



「水嶋は今回の契約をどう思う?」

「‥‥成功すれば三年先まで契約を引き延ばす、と約束されたわ。失敗すれば反古になる。結果はそれだけではなくて‥‥」

「食品業界における我が社の評価が落ちる」

「そうね」



責任の重い仕事だ。

勿論私と有川くんに全責任が圧し掛かるわけではない。
途中で手が空いた人員を補充してくれるらしいから。



「で?プレッシャーを跳ね除ける相談でもしに行くの?」



ちっとも核心に迫らない彼に痺れを切らし、からかう様に問いかけた。

暫く返事はないが、さして気にも止めない。






「‥‥持てる駒は最大限に活かせ。俺にそう教えてくれた人なんだ」






彼は気付かないだろう。

眼が何処か寂しげだったのを。



「‥‥‥‥」

「‥‥‥‥」





この沈黙を裂くべき言葉が見当たらない。
何を言えばいいのか。

思い付くほど、私は彼を知らなかったから。




‥‥彼のことは、ほんの少ししか‥知らない。







気まずいまま、視線を滑らせて窓の外を眺めた。














「‥‥‥水嶋。着いたぞ、水嶋」

「‥‥‥え?」



身体が揺れる心地にハッと我に返れば、いつの間にかうとうととしていたらしい。
瞼を開けると、彼の手が私の肩に乗っていた。



「昨日寝たかと聞いてきた時は驚いたけど、水嶋が寝不足だったからなんだな」

「ちょっ、いいでしょ!」



さっきの私の発言を拾い上げ、したり顔で頷いてくる。
恥ずかしいのに!とムッとした私。
先に車を降りてやろうと、シートベルトに手をやった。


が、横から伸びた腕に呆気なく捕まる。



「忘れ物だ」

「何よ、もう──‥‥‥ん」



四日振りに受けたキスは、束の間仕事を忘れさせた。




 





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