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「ごめん、アレルギーあるかどうか、先に聞いておこうと思って……」

 教室の入り口に立つ凪沙は申し訳なさそうに顔を顰めながらそう告げた。まずい、今の会話全部聞いていたのだろうか。というか、『やっぱり』とはどういうことだ。凪沙は及川自身も気付かなかった苦手意識を見抜いていたというのか。いやでも違うのだ。少なくとも今は、違うのだから。

「ちがっ──誤解だよ誤解っ!! いや、最初はもしかしたらちょっとだけ、ちょーっとだけ苦手だったかもしんないよ!? 俺の苦手な奴らに似てるとこあったみたいだし!! でも俺も全然気づかなかったし!?」

 まずは弁明だ。逃げ出されては追いつけるわけがない。相手は一瞬で地球の反対側まで飛んでいく魔法使いなのだから。岩泉がいることも厭わずに、とにかく必死で捲し立てる。

「今はそんな苦手意識全然ないからね!?」

「いや、あの──」

「しかも苦手ってあれよ!? 嫌いとかそういうんじゃなくて!!」

「だから──」

「俺にはないもの持っててすごいな〜みたいなそういうあれだから!!」

「徹──」

「それに俺、自分でも引くぐらい凪沙ちゃんのこと好きだかねっ!?」

 豪快な愛の告白に、ぶはっ、と吹き出したのは凪沙だけじゃない。背後にいた岩泉もだ。そういえば、言い訳がましい告白をして以来、『好き』と伝えたことはなかったような。ええい、今はそれどころじゃない。顔を真っ赤にする凪沙を逃がさないようにとにかく自分の考えを必死に訴える。

「ほんと──こんな風に女の子のこと、好きになったの、初めて、で」

 未来は、常に不安定だ。言葉も文化も全く違う場所で一人、己の身一つで戦うことがどれだけ恐ろしいか。理由は状況はどうあれ、こんな身近に先駆者がいた。それが及川にとって、どれほど勇気付けられたか。最初はきっと、そんな尊敬の念を含んだ興味だった。それは認める。けれど、凪沙と過ごすたびに、その瑞々しい感性や真っ直ぐな物言いに、徐々に惹かれていった。

 何より、先の見えない未来の話を笑いながらできる、そんな人だったから。

「ほんと、誤解なんだ──だから、逃げないで」

 またあの時みたいに無視されて、逃げられたら、嫌だ。そんな思いで、彼女と同じようにストレートに思いをぶつける。ささやかに煌めく青の瞳は驚いたように見開かれ、そしてそのまま両手で顔を覆って教室の入り口でずるずるとその場にしゃがみ込んでしまったのだ。泣かすつもりなんてなかったのに!

「ちょっ、泣かないで! 俺、あの、そんなつもりじゃ──」

「……しって、る」

 細い指の間から、か細い声が漏れ聞こえてくる。え、と息を呑んでよく見れば、指の隙間から見える柔らかな頬や、艶のある髪の毛のかかった耳は、今にも燃えそうなぐらい真っ赤に染まっていた。

「ちゃんと、わかってる」

 そうして上げた顔は、涙に濡れていたのではない。恥ずかしそうに真っ赤になっているが、青の目はしっかりと及川を貫いた。その真っ直ぐな目に言葉が出ないまま戸惑う及川に、何も言わずじっと見つめてくる凪沙。

「あー……俺、先行ってるわ」

「え、ちょ──」

 空気を読んでいるのか読んでいないのか、そんな二人に岩泉は気まずそうにそう言った。そうして引き留める間もなく、岩泉は教室の後ろのドアから出て行ってしまった。そうして教室には、凪沙と及川だけが残されてしまって。一瞬の、沈黙。お互いがお互いの顔を見て、言葉を詰まらせた。

「えーと……」

「あの……」

「あ、先どうぞ」

「いや、徹こそ」

「えっと、あの、レディー・ファーストで」

「いらないけど、そういうの……」

 でもいいや、凪沙はそう言って杖を引き抜いたので、及川はギョッとして飛び退いた。けれど杖先がこちらに向けられることはなく、教室の周りに魔法をかけているようだった。たまに見かける、人を追い払ったり、盗み聞きできないようにする魔法のようだ。ひとしきり魔法をかけ終えて、よし、と凪沙は杖をしまうと、及川に向き合う。

「うーんと、どこから話せばいいかな……」

「あの、ほんと、さっきのは誤解で──」

「知ってる知ってる。というか、分かってる、っていうべきなのかな」

 そう言いながら、教室の机にもたれかかるように腰かける凪沙。どこか気まずそうに顔を引き攣らせながら、凪沙は不思議と観念したように諦めた様子で天井を見上げた。

「あのね、私、開心術士なんだよね」

「かいしん、じゅつし……?」

「心を開くと書いて、開心術──私ね、人の心が読めるの」

 そう告げる凪沙は、とても悲しげだった。寂しさ、諦め、それから傷心に満ちたその告白が何を意味するのか、及川は何となく理解できたような気がした。

「生まれつきのパッシブスキルみたいなもんでね、オフにできないの。まあ、すごい術士は人の考えてることが事細かに分かったりするんだけど、私は人の感情が分かる程度でさ」

「人の感情っていうと……怒ってるとか、楽しんでる、とか?」

「そうそう。何考えてるかは分かんないけど、喜怒哀楽は何となく分かる、って感じ。……だから、さ。分かるんだよね」

 そう言いながら、凪沙はくたびれた笑みを湛えながら及川に視線を寄越す。

「徹が私に一目惚れしたってことは、嘘だって分かってた」

「え──」

「好意が私に向いてなかったからね」

 凪沙は事も無げにそう告げた。けれどその目に及川を責める色はなく、寧ろ申し訳なさそうに見えた。

「でも、私も分かってて付き合うことにした」

「……か、彼氏が、ほしいから?」

「うん、そう。だから、騙してたのはお互い様ね、そこは謝らない方向で」

 それはそれ、とキッパリと言い切る凪沙。興味本位で一目惚れと嘘を吐いて凪沙に近付いた及川、そんな嘘を見抜きながら乗っかった凪沙、どっちもどっちということか。

「だから、徹がさっき言ってたことが全部本心だって分かってる。それと同じで、最初私に苦手意識を持ってたことも、知ってた。……まさか、自覚がないとは思わなかったけど」

「そ、そう、なんだ……」

 急に恥ずかしくなってきて、及川の視線は木目の地面に吸い込まれていく。さっきの弁明に何一つ嘘はないけれど、そういった魔法の能力で『真実です』と肯定されると、こう、照れくさいというかなんというか。ゴニョゴニョと言葉を濁していると、凪沙はふっと笑みを零した。

「だからさ、私も隠し事なしでいこうと思って」

 よいしょ、と少女は机から降りる。スカートがふわりと浮き上がるのが見えて、慌てて顔を上げる。凪沙は穏やかな笑みを湛えながら、一歩、二歩と、彼女の瞳の色が分かるぐらい近付いてくる。

「動機は、言った通り。高校最後ぐらい、彼氏と一緒に遊んでみたかった。だから、一緒に勉強したり、部活の応援したり、デートできたりして、すごく楽しかった」

「……うん」

「徹はずっと優しかったし、かっこよかったし、尊敬できる人だった。だから、徹の好意が私に向き始めて、すごく嬉しかったんだよ」

「そ、それじゃ──」

「うん。私、徹のこと、ちゃんと好き。……好きに、なったんだよ」

 それは、初めて聞く凪沙の本心だった。照れくさそうにはにかみながら、そっと及川の手を取る凪沙。冷えた指先をゆっくりと絡められ、ぎゅっと力を籠める。そこに確かな、凪沙からの想いを感じる。

「何より嬉しかったのはね、徹。魔法のこと、全然聞かなかったことなんだ」

「……魔法のこと?」

 確かに、基本的にバレーのことを中心に、勉強だとか、デートのことだとか、そんな日常的な話ばかりしていたような。『こういうことができる』と凪沙が言えばその続きで魔法の話もしていたが、そこまで深堀りしなかった。興味がないわけではないが、やはり人前でする話でもない。第一、及川はそれを聞いても『へえ』『なるほど』『すごい』と言う他ない。バレーであれば見せてあげられるし、一緒にプレーもできないわけではないだろう。だが、及川に魔法は使えない。そこには絶対に埋められない『差』がある。その差を、無意識のうちに避けていたのかもしれない。

「普通さ、魔法使えるって聞いたら色々聞いてきそうなのに、徹は全然聞かなかった。私を使って、自分に都合のいい生き方だってできたかもしれないのに、それを望まなかった」

「いや、そんなの当たり前でしょ」

「……ううん、私は当たり前だと思わない」

 きっぱりと言い切る凪沙。もしかしたら、その心を読む力で、或いは魔法使いだと誰かに打ち明けて、『自分に都合のいい生き方』を強いられたことがあったのかもしれない。深くは、聞かない。凪沙が語らないことを、無理に聞き出す気はない。凪沙の言葉の続きを待つ及川に、彼女はふっと力なく笑んだ。

「徹のそういう素直というか──真摯とでもいうのかな。そういうところにも、惹かれた。……でも、付き合い続けるかは、正直ちょっと迷ってた」

「それは、俺がアルゼンチンに行くから?」

「関係ないよ。言ったでしょ、私が会いに行けばいいんだから」

「じゃあ、なんで?」

 紆余曲折経たが、要は及川は凪沙が好きで、凪沙も及川が好きになった。物理的には遠距離恋愛になってしまうかもしれないが、彼女は魔法使い。その距離は、埋めてくれる。つまり、ハッピーエンドもいいところ。なのに、彼女の表情は暗いまま。

「マグル──つまり、魔法の使えない人と魔法使いが結婚するのは珍しくはないんだけどね、上手くいかないことが多いんだよね。お互いの生活圏が、あまりにも違い過ぎて」

「俺たち……その、マグル? には、そっちの生活のこと、分かんない、から?」

「そう、お母さんがまさにそうでね。マグルのお父さんと結婚したけど、マグルの世界で暮らすうちは魔法を自由に使えない。それがストレスになって、不仲になる家庭も社会問題になるぐらいでさ」

 及川は日本とアルゼンチンを秒で行き来できない。それにはどうしたって魔法が必要だ。何十時間、何十万かけなければ自分の生まれた国に帰れない及川に比べて、凪沙はほぼノーリスクで国境を超えられる。そこには確かに、埋められない『差』がある。確かに羨ましいし、ずるい、なんて感情が芽生えないとは言い切れない。そういう摩擦が、彼女の言う社会問題を生み出すのだろう。

「だから、私は二つの生き方を諦めなかった」

「……どっちの世界でも、生きていけるように?」

「そう。七年間ずっとホグワーツに通ってたお母さんは、こっちに友達もできずに、働いてもいないから、世間から少しズレちゃってる。だから頻繁にイギリスに帰るんだよね。自分が魔女として振る舞える場所が、そこにしかないから」

 彼女の母親がどれほどの孤独に苛まれたか、及川には理解できない。けれど、言葉も文化もまるで違う二つの国で生き、片方を手放して、何の因果か手放した世界で生きることになった凪沙の母親を思うと、ギュッと胸が締め付けられる。それは及川も辿るかもしれない、孤独の道だから。

 それでも。

「……でも凪沙ちゃんには、魔法使いとしての場所も、ただのマグルとしての場所もある」

「そう。どっちも諦めるなんて、したくなかった。勉強がしたかったのも嘘じゃないけど、一番はそれ。自分の世界を、狭めたくなかったの」

 だから彼女は魔法使いと日本の学生を両立させた。時間を逆巻いて、同じ日を二回過ごすことになっても、凪沙は自らの限界に挑戦した。その生きざまに、胸が熱くなる。彼女もまた、挑み続ける者なのだと。

「……ええと、ちょっと話逸れちゃった。つまり、何が言いたいかっていうとね──」

 そう言って、凪沙は倒れ込むように及川にぎゅうと抱き着いてきた。突然の出来事に身体が強張る及川の胸元に、凪沙の頬が寄せられる。

「私、ちゃんと徹が好きだよ。最初あった苦手意識も、もう感じない」

「うん──うん」

「でも私は、これからもずっと魔法使い。そこは絶対変わらない」

「うん」

「人の感情も読めるし、嫌な思いさせることもあると思う」

「うん」

「でも、徹が好き。だからこれからも、私と付き合ってほしい」

「……彼氏がほしいから、じゃなくて?」

「意地悪!」

「うそうそ、冗談」

 もしかしたら、及川にも人の感情が読めるようになったのだろうか。凪沙の溢れ出る好意が、ふわふわとしたオーラのように見えた気がした。そんな空気ごと彼女をギュッと抱き締めた。

「俺だって、バレーで生きてくって決めた」

「知ってる」

「日本に何度戻れるか分かんない。……もしかしたら、戻らないかも」

「うん」

「でも、好きなんだ。大好きなんだ。だから、どこにいても会いに来て」

「行くよ、どこへだって」

 ぎゅ、と背中に回されるか細い腕の力が、世界で一番愛おしい。

 この小さな魔女は、これから及川と生きていく。どんな未来が待っているのか、まるで想像できない。彼女はこれから大学生で、及川はプロとして邁進する。彼女はこれからもマグルの世界で生きるのか、それとも魔法使いとして就職するのか。それすらも定かじゃない。彼女の述べた『社会問題』が二人の間に降り注がないとも否定できない。

 それでも、彼女と明日を生きていく。そこにどんな『苦しい』という壁が立ちはだかったところで、何度だって『楽しさ』を思い出す。凪沙も及川も、そうやっていくつもの壁を乗り越えてきた。きっと二人の問題だって、『苦しい』を跳ね除けられると信じていた。そうして何度となく迎える『楽しさ』はきっと、明るい未来に導いてくれる。

 La verdad surge de la falsedad[嘘から出たまこと]だっていい。この温もりが現実なら、なんだって。



《La verdad surge de la falsedad 完結》

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