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 そんなこんなでデートを終えた、次の月曜日。センター試験も終え、受験戦争は本番とばかりに過酷になっていく。それでも、戦争に参加しない及川と凪沙の日常は変わらない。授業を受けて、バレーをして、少しばかりの時間を共に過ごす。けれど刻一刻と、学生時代の別れは近付いていく。けれど及川も凪沙もそこには触れず、ただただ今を享受していたのだった。その理由を、及川は考えないようにしていた。

「ね、凪沙ちゃん。今度また試合あるんだけど、見に来ない?」

「行く行く! いつ? どこで? 何時から?」

 場所も時間も聞きもせず、凪沙は真っ先に頷いた。毎度のことながら、話が早すぎる。いつもの通学路を歩きながら、二人は和気あいあいと会話を続けた。

「二月の最初の土曜。空いてる?」

「土日なら余裕! 場所は? また大学? それともこっちの体育館?」

「ふっふっふ。今回はちょっと特別なんだな、これが」

 チッチッチ、と得意げな顔をしても、凪沙は茶化すことなく「どこどこ?」と目を輝かせる。流石にもう慣れてきたが、やはり勝手が違うなと思いつつ、及川は普段通りにさらりと告げる。

「実は今度、プロチームの練習に混ぜてもらうことになってさ」

「おお、いいね。……でもそれ、先月も行ってたよね?」

「そのチームが特別なの」

「と、いいますと?」

「そこ、俺が人生で一番憧れてる選手が監督努めてたチームでさ。立花レッドファルコンっていうんだけど」

「へえー! じゃあ、その監督さんに会いに行くの?」

「正確には監督はもう辞めてて、アルゼンチンに帰ってるんだけどね」

「アルゼンチン──あ、もしかしてその監督を追いかけて……?」

「そ。俺、あの人に──ホセ・ブランコに弟子入りしたいんだ」

 自分の人生を決めた、憧れの人。幼い頃コートで活躍していたその人が日本にいて、話をして、進路の後押しをしてくれた。これほど嬉しいことはなかった。タイミング悪くアルゼンチンに帰ってしまったが、遅かれ早かれ海外に挑戦することにはなったのだ。こんなもの、早ければ早いほどいいに決まっている。

 どうせ目の前に立ちはだかる全員を、倒すつもりなのだから。

「んで、その人が今さ、日本に来てて、古巣に顔出してるらしくてね。弟子入り前に師匠の前でいいとこ見せて来い、ってウチの監督が取り計らってくれたんだ」

「えー! すごい! そりゃ気合入れるっきゃないよね!!」

「そういうこと。俺もすげー楽しみでさ」

「わー! わー! 私も楽しみ!! 絶対応援行く!!」

 それは、恋人だから、なんて理由ではない。自分が見たいから、行きたい。バレーが楽しいから、見たいと彼女が言う。それが何より、嬉しかった。この素直で真っ直ぐな感性が、彼女を魔法使いと女子高校生を両立させているのだろう。

「凪沙ちゃんほんと応援好きだよね」

「うん! 正直、今までスポーツの楽しさってよく分かんなかったんだけどね!」

 でもね、と隣を歩く少女がいたずらに笑う。

「徹のプレー見て、印象変わった。スポーツ見てて、あんな風に熱くなるんだって初めて知った。プレイヤーの熱は、応援者にも伝わるって分かった」

 ぐ、と拳を握り締めて語る凪沙の目にも、確かに『熱』が灯っている。ああ、本物だ、と思う。上辺だけじゃないその好意が純粋に嬉しくて、ついつい彼女の顔を凝視してしまい──。

「……あれ?」

 ふと、立ち止まる。今まで、何度となく抱いた違和感。気のせいだと意識にも留めていなかったのに、それは決して間違いではなかったことに今更になって気付くなんて。そんな及川に、凪沙は目を丸くする。

「どうかしたの、徹」

「いや──あれ、凪沙ちゃん、もしかして右目の色、ちょっと青い?」

 そう、目の色だ。凪沙はクォーターだと聞いているが、ぱっと見では全く分からない、純日本人に見えていた。だが、その黒目──右目だ。右目の黒目だけ、やや青みがかっているような気がしたのだ。腰を折ってじっと見つめると、凪沙は得意げに口角を釣り上げた。

「すごい。よく気付いたね、徹」

「いや、ほんと光の加減かなって思ってたけど……やっぱそうなんだ?」

「うん。右目だけお婆ちゃんの目と同じでさ」

「左目は違うんだ。へえー」

 確かに、左目は真っ黒だ。けれどこんなの、近くでじっと観察しなければ気付きようがない。我ながらよく気付いたものだと思いながら見つめていると、凪沙の顔は徐々に赤らんでいく。

「徹、あの、そろそろ……」

「え──あ!? ご、ゴメンッ!!」

 瞳を覗き込むために、随分と顔を近付けてしまった。あわやキスでもできそうな距離に、及川は驚き慌て飛び退いた。ドクドクと今更ながら慌ただしくなる心臓を押さえながら、及川は誤魔化すように身振り手振りする。

「あの、だから──来週! 来てよ!」

「う、うん! 行く! また駅前集合で、いいかな!?」

「いいと思う! 電車一駅だし!」

「オッケー! 分かった! そういう感じで!」

「ウン! そういう! 感じで!」

 こんな風に、お互いギクシャクとした空気のまま、帰路につくことになったのだった。けれど、決して嫌な気分にはならなくて。寧ろ、寧ろ、寧ろ──。



***



 調子とは、謂わば波のようなものである。

 いくらポテンシャルがあったところで、その日一日に最大限のパフォーマンスが発揮できるとは限らない。テストは勉強を続けられれば常時ポテンシャルの八十パーセントほどは出せると思うが、スポーツはその『常時』が困難なのだ。百二十パーセント出る時もあれば、どんなに頑張っても三十パーセントしか出ない時もある。トップアスリートは自分の意志でその波をコントロールするというが、そんなプロたちでさえその波を制御できずに、飲まれることもしばしば。

 ──よりによって、その波が今日やってきてしまうとは。

「(集中……集中……!)」

 バレーボールを手に、祈るよう言い聞かせる。そうして高く高く上げたトスに腕を振り下ろすも、ボールは矢のように発射され、そしてネットに突き刺さってしまうのだった。

 その日、及川は恩師のツテでプロリーグの立花レッドファルコンの練習試合に参加していた。とはいっても一軍選手は、今まさにシーズン真っただ中。参加したのは二軍の紅白戦だが、それでも──言い方は悪いが──高校・大学とは比べ物にならないレベルの高さだ。トスを上げるのがやっと。やはり厳しい世界だ。ただ、そんなのは承知の上。それでへこたれることはない。ないけれど。それでも。

「ドンマイドンマイ!」

「次取り返せ!」

 今日初めて顔と名前を知った選手たちの勇ましい励ましは、決して及川を責めることはない。所詮は紅白戦。リーグ戦とは重みが違う。それ故に気楽にやれと彼らは言ってくれるのだ。

 分かってる、そんなことは。それでも、せっかく人生の師と仰いだあの人に、自分のプレーを見てもらえる絶好のチャンスだったのに。このバレーで俺も一緒にアルゼンチンに行くのだと、迷いは断ち切ったのだと、示したかったのに。

「(俺は、もっとやれる──……!!)」

 それでも、プレーは精彩を欠く。普段しないようなミスを犯し、トスも此処という場所に決まらない。その焦りが、更にミスを煽る。それでもプロ選手たちはよくあることだ、いい練習になると笑い、懸命にフォローしてくれる。おかげで試合は拮抗しているが、やはりここぞという時に決まらない焦りはじわじわと及川の首を締め上げていくようで。

「及川決めろー!」

「ナイッサー! ナイッサー!!」

「元監督いるからって焦んな焦んな!!」

 前から頼もしい応援が響く。分かっている。大丈夫。集中しろ。普段通りでいいのだ。憧れの人がいるからと、何を緊張しているのか。こんなところでベストを尽くせないで、何が海外挑戦か。そう何度も何度も己に叱責しながら、再びサーブポジション向かう。手にしたバレーボールを、今日ほど重く感じたことはない。ああ、くそ。こんなにも楽しいスポーツなのに、同じぐらい『苦しい』はやってくる。避けられないことだ。そんなこと、今更知るようなことでもないはずなのに。

 なのに、嗚呼、なにもこんな時に来なくたって──っ!


「──味噌バターコーンラーメン!!」


 その時だった、観客席からそんな声が降ってきて、その場でずっこけそうになった。はっと観客席の方に顔を上げれば、そこには恋人の天城凪沙の姿。彼女はどこかしたり顔でラーメンの名前を連呼していた。ここはラーメン屋じゃないのだ、凪沙の声援は完全に悪目立ちしている。おかげで周囲の観客たちはクスクスと笑い声を漏らしている。

 なのに、凪沙は何一つ気にした様子もなく声を張り上げている。一体何して、と零そうとした瞬間、思い出したのだ。二人でした、あの会話を。

『──でさあ、ここぞというサーブで、みんな『ショウユー!』とか『タンタンメーン!』とか叫ぶわけ! ひどくない!?』

『ぶっ、あっははっ!! いいじゃん、肩の力抜けそう!』

 凪沙はちゃんと覚えていたのだ。何気ない会話を、ちゃんと大事にしてくれていた。そして、こんなところで思い出させてくれたのだ。春高予選の、あの日々を。

 す、と肩の力が抜けていくのが分かる。それと同時に、どれだけ自分の身体が強張っていたのかも、理解した。ああ、こんな身体でまともに動けるはずがない。けれど、もう、大丈夫。彼女の一声で、あの光景を思い出したから。自分のプレーを、あの時の自分を、取り戻せたから。

「(凪沙ちゃんに奢ると、怒られるからね!)」

 ヒュッ、とトスを上げたボールが空を切る。そこを目掛けて、走る、走って、地面を蹴り上げる。ふっと浮き上がる身体が、ああ、なんと軽いことか。まるで空中に静止しているようで、コートがよくよく見えた。ここだ、というところで斧のように腕を振り下ろせば、ダァン、とボールは相手コートに突き刺さった!

 おお、ナイッサー、と味方チームからの歓声が上がる。いきなり出力を上げた及川に、相手も驚き顔を見合わせている。ああ、そうだ。これが本来の自分。やっと、やっと戻ってきた。散々な醜態を晒してしまったが、ここからがゲーム・スタートだ。

「(──見てて、凪沙ちゃん)」

 これが己がプライドのために人生を捧げるスポーツだと、及川は何度目かのサーブを放つために、コートを蹴り上げた。

 結局及川のチームは怒涛の追い上げを見せ、見事白チーム相手に三セットを奪取してみせた。数か月ぶりに古巣のチームに戻っていたホセ・ブランコは、来年度迎える及川の活躍っぷりに大層喜んでおり、直接話す時間を設けてくれたほどだった。

『少し調子が悪そうだったが、修正できたようで何よりだ。これなら来年もウチのチームでやっていけるだろう。これからも、決して怠るなよ』

『ハ、ハイ!! 今日はありがとうございました!!』

 母国語とも日本語とも違う彼の英語は少しばかり聞き取りにくいと、凪沙との特訓を重ねて初めて知った。それでも、特訓の成果だろうか。以前より彼の言葉が分かるようになっていた。師と仰ぐその人にきびきびと頭を下げて、今日の練習はお開きになったのだった。

「お疲れー、徹」

 そうして着替えた後、エントランスで待つ凪沙の元へ向かう。彼女は及川の顔を見るや否や、ニッと笑ってピースサインを見せたのだった。その笑顔に表情が綻ぶ自身を、無視することができなかった。

「今日はありがとね、凪沙ちゃん」

「いやいや、私はただ応援してただけだよ」

「ううん、ちゃんと俺に魔法をかけてくれた」

「え!? 使ってないよ!?」

「知ってる。でも、俺にとってはちゃんと魔法だったよ」

「応援が、ってこと……?」

 凪沙はあまり分かっていないようで、しきりに首を傾げていた。そうだ、あれは、彼女の『魔法』だ。肩を張っている及川の緊張を解すための、杖も呪文もない魔法。けれど本人の言うように、それは本当の意味で魔法でも何でもないもので。なのに、これほどまでに効果を実感できたのはきっと、及川自身の変化のせいだ。その変化を、及川はようやく受け入れたのだ。

 天城凪沙が、好きだ。彼女の真っ直ぐでハッキリとした物言いも、貪欲なまでの学習意欲も、何事も全力で楽しむ笑顔も、時折想像もつかないことで及川を振り回してくるところも、全部全部好きだと思った。それが分からなかったわけじゃない。だけど、自分のペースを乱されながらも、それを良しとする、寧ろ楽しんですらいるのは初めての経験だった。女の子は自分が手を引いて、守って、リードしてあげる──そんな価値観が粉々に砕くような、型破りの女性。当たり前だ。

 彼女は常識なんかに捉われることのない、魔法使いでもあるのだから。

「じゃ、リクエスト通りに味噌バターコーンラーメンでも食べに行きますか」

「いやいや! 別にそういう意味で言ったんじゃないよ!?」

「いーのいーの。腹減ったし、そのついでにさ!」

「そ、それは賛成だけど──あの、私、自分が食べる分は自分で払うからね!?」

 伸びをしながら駅に歩き出す及川を、凪沙は慌てて追いかける。そうして並ぶ彼女の手を取って、指を絡める。少し驚いたように青に煌めく黒目が見開いたが、ゆるゆると弓形に細められていく。ああ、好きだな。そんな風に強く思う。来年自分がどんな生活に身を置いているか分からない状況下なのに、この人が隣を歩いていてよかったと心から思った。

 願わくば来年も、再来年も、これからずっとそうであればいい、と。

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