プロローグ

「──ふざけるなあっ!!」

 ガシャンッ、とローテーブルがひっくり返され、備え付けの灰皿は音を立てて真っ二つ。漫画キャラよろしくテーブルをちゃぶ台返しした赤ら顔の男は、それでも怒りが収まらないらしい。フーフーと荒い息で二人の男女を睨みつける。

「前金五百万からふざけていると思っていたが、成功報酬二千万!? 客をおちょくるのも大概にしろ!! どこまで金にがめついんだ、貴様らァ!!」

「ですから、再三申しているでしょう」

 そんな男に、向かいに佇む女がゆっくりと口を開く。年の頃は二十代だろうか。若い女は、秘書よろしく黒いパンツスーツに身を包み、その右胸には真っ赤な派手なスカーフが顔を覗かせている。女はしずしずと、まるで聞き分けのない子ども相手のように語る。

「弊社は、依頼成功率百パーセントを維持する探偵事務所でございます。前金も報酬も、他社よりはある程度要するとお伝えし──」

「たかだか嫁の浮気調査だぞ!? 二千五百万も何に使うんだ!!」

「でしたら、他の探偵事務所に調査を依頼するのがよろしいかと。お客様とて、その結果に不満が残るから弊社に依頼したのでしょう? 何せ神室町の探偵たちは、調査結果を調査相手に売り込むような意地汚い連中ばかりですし」

「ぐっ……」

 男は図星とばかりに呻く。無論、そんな悪徳探偵ばかりではない。同業者には真っ当にクライアントの要望を叶えんと奮闘する探偵もいるだろうが、星の数ほどいる探偵事務所のうち、一番星を掘り当てることにどれほど時間を要するか。

「その点、弊社は金銭では動きません。何せ、依頼料を上回るような買収金を用意できる調査相手もそういません。信頼を金で買うのです、大企業の代表取締役様には、ささやかな痛手でしょう?」

「だ──だからって、二千五百万なんか出せるかッ!!」

「では、お引き取りを。ご存知の通り、弊社はそれなりの成功報酬を頂いておりますが、不思議か連日依頼は予約待ち。クライアントには困っておりませんので」

「馬鹿な……こんなぼったくり探偵が、何故そんな──」

「世の中には金よりも大事なものがあると、平気で何億と積み上げるお客様もいらっしゃいますので」

 にこり、と人の好さそうな顔で微笑む女に、客の男は真っ赤な顔で罵詈雑言を並べようと口を開くも、向かいに座る男がそれを抑止していた。何せ秘書の横の椅子に座る男の風体といったら。椅子に座ってなお、横に立つ女とさほど変わらない目線。二人掛けのソファが小さく見えるほどの筋骨隆々な体躯、険しい顔はサングラスでは隠しきれないほど凶悪で、探偵事務所の所長というよりはヤクザの若頭である。これに殴られたら骨の一本や二本では済まないと、客の理性が何とか暴言を押し留める。

「……お客様よォ」

 そんな強面の男が床に転がった灰皿の破片を拾い上げ、吸っているたばこを押し付ける。しゅ、と音を立てて消える火。たったそれだけの動作が、次はお前がこうなる番だと、暗に告げられているようで、客の男は震え上がる。

「聞いての通り、ウチは依頼成功率百パーを謡ってる。当然、その裏付けになるだけの調査員の人件費ってモンがかかるわけだ、お分かりで?」

「だっ、だが、成功するかも分からんのに、前金五百万など──」

「依頼成功率百パーセント、そう言ってんだろォ? ウチはなあ、その辺の事務所と違って広告打ってねえのよ。チラシも配ってねえし、ネットでも検索できない」

「は……?」

「ウチはな、その手元の名刺と口コミだけで商売やってるんですよ」

「我が社の住所と電話番号が書かれているその名刺は、世界に百枚しかない貴重なものなんですよ」

 一般人には手出しのできない依頼料を提示するのだ、誰彼構わず事務所の戸を叩かれては困るという所長の方針により、色々なツテで業界の要人に貴重な名刺を配ったのだ。それ以外にはこの事務所の戸を叩くどころか、アポを取ることすらできない、秘密の探偵事務所なのだ。けれどその依頼成功率が信頼を築き、数多の客を呼び寄せる。結果的に、この事務所は広告費を払う必要がないほどに、儲けを出しているのだ。

 だがその希少性を、彼は理解できなかったらしい。握り締めた名刺を、怒り任せにビリビリと破き始めた。

「やめだ、やめ! 何が依頼成功率百パーセントだ! 馬鹿馬鹿しい! 浮気調査など、どんなヘボ探偵でも五万でこなすわ!!」

「んじゃ、そのヘボ探偵に依頼すればいいだろう」

「ええ。残念です、せっかく面白そうな依頼だったのに」

「面白そう、だと!?」

 激高した客は女の言葉にさらに真っ赤になる。そんな客──いや、もう依頼を取り下げる時点で彼らにとっての客ではない。女は薄っすらと柔らかな笑みを浮かべる。

「これは依頼料を頂く前にお話しするのですが──弊社にとって依頼は『道楽』と同義でございます。お客様が膨大な金銭を打ち捨ててまで、人に縋り、数多のトラブルを乗り越え、目的を果たす。その姿を傍で眺めることが、何よりもの至福。道楽そのものでございます」

「ふ──ふざけるなぁ!! 貴様らっ、人の不幸を何だと思ってる!!」

「道楽、にございますとも。ですがご安心を。我々は人の不幸を悦に入るような悪趣味さは持ち合わせておりません。あくまで、全てを投げ打ってでも一つの目的のために足掻くその様を、愛でているだけで──」

「同じことだろうが、ふざけおって! もういい、貴様らには頼まん!!」

 そう叫んで踵を返す客に、男は引き留めることもしない。女もだ。けれどどちらも残念そうに肩を落とす。

「嗚呼、勿体ない。久々に血を見ることになりそうだったのに」

「……な、何?」

 足を止めて、振り返る男の顔は引き攣っている。普段生きていれば一切聞くことのない言葉。けれど、この町においては日常茶飯事。

 そう──この、神室町では。

「ええ、奥様の浮気調査が依頼とのことで、こちらも面談前に事前調査を行っていたのですよ。どうにも奥様はよからぬ輩と繋がっているようで」

「よからぬ輩、だと……?」

「ええ、まだ詳しい状況は分かりませんが、とある極道組織の幹部クラスと──おっと、流石に依頼料も貰えていないのに、これ以上お話するわけにはいきませんね」

「極道──ま、まさか、東城会の……っ!?」

「ご足労頂いたサービスです。ここからは、有料でございます」

 そう言って優雅に頭を下げる女に、男は顔をさっと青くした。たかが浮気調査だったはずだ、何故極道組織が出てくるのか訳が分からない、と言った表情だ。そんな顔を面白がるように、女はくすくすと笑みを漏らす。

「東城会のお膝元の神室町でヤクザと事を構えるような命知らずな探偵事務所は、そうないでしょうね」

「な、な、な──!?」

「暴対法で取り締まられているとはいえ、東城会は毎年何億もの金を動かす、構成員一万人を超える大組織。誰とどのように繋がっていたとしても、銃弾数発で済むような事件であれば良いのですが」

「ば──馬鹿な、ことを。たかが、浮気調査だ、何故、そんな」

「さて、この先は腕もよく気前もよく、東城会と揉めても依頼人を守ってくれるような、男気溢れる事務所にてお伺いください。大丈夫、我が社のような武闘派探偵事務所は探せば──まあ、いつかは見つかるでしょう」

 ぐ、と胸元で両手を握り締め、ファイトです、と微笑む女は完全に客をおちょくっている。だが、全てが全て冗談ではないことは、客も理解していた。問題はそれがどこまで本当なのか。それを確かめるためには──。

「さあ、お客様。お選びください」

「二千五百万払うか、黙って帰るか、だ」

 強面の男がトドメを刺す。そうだ、選ぶ道は二つに一つ。この場に留まるか、去るか。二人の探偵はこちらの判断を待っている。ニコニコニヤニヤと、笑いながら。この二人にとって、依頼など娯楽の一種。そうでなきゃ、都庁のすぐ傍のタワーマンションのワンフロアを貸切って事務所にしてしまうなんて、できようはずがない。本当に、嫌がらせでも何でもなく何百万、何千万の依頼料で仕事を請け負っているのだ。男は破り捨てた名刺の欠片に目を落とす。

 確かに、この名刺をくれた人も言っていた。法外な依頼料を取るが、法に触れない依頼ならどんなことでもやってのける探偵がいる、と。けれど、まさか自分の妻の不貞が、東城会だの幹部だのなんてワードを引っ張ってくるとは思いもよらなかった。確かに、身内の反社会組織との繋がりは不味い。それが二千五百万で憂いを払えるのなら──いや、しかし──。

 散々悩んだ挙句、男は大きく舌打ちをした。

「──成金探偵め!」

 そう吐き捨てて、男は事務所のドアを蹴破るようにして足音を立てて出て行った。バタンと閉められたドアに、探偵二人は溜息をも漏らす。

「こうなると思った。次のアポは一時間後、片付けよろしく」

「承知」

 二人には分かっていたのだ。あの金にがめつい男が、この程度のことに大金を積むはずがないのだと。ただ、反応が面白かったから、気まぐれで付き合ってやっただけ。本命はこの一時間後に来る客だ。テーブルを片付け、コーヒーを用意し、パソコンを持ち込む。そこには依頼主の名前と、依頼内容。それからこの仕事を受けるに当たっての事前調査とその結果が、整然と並べられている。

「──フ、フ。こんなの、面白くないわけがない!」

 探偵事務所の所長はソファにふんぞり返ってニヤリと笑む。『御幸一也の調査報告書』と銘打たれたファイルを眺めながら、次の『道楽』を待ち望む。壁一面に広げられたテレビには、件の依頼人の顔がひっきりなしに放送されている。

 ──御幸一也選手、野球賭博により球界永久追放、と。



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