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『御幸? おい、どうした。何が──』

「すんません、後でかけ直しますッ!!」

 そう言って、御幸は電話を切ってスマホをベッドに投げ捨てた。二週間なんの音沙汰もなかった人が、当たり前のような顔をして玄関先にいる。しかも彼女の言っていた『アレックス・ターナー』という人は実は女性で、婚約者でも何でもなくて、何故そんな嘘を。ああもう、訳が分からない。

 とにかく、ひっきりなしに鳴り響くチャイム音に誘われるように、御幸は玄関へすっ飛んでいく。慌てて扉を開けると、二週間ぶりの凪沙の姿があった。ケロッとした顔で、紙袋を携えている。

「こんばんは、御幸さん」

「こ、こんばんは、て──凪沙さっ、今まで何して──!!」

「はいこれ、お土産です」

 しれっとそう告げて、彼女は紙袋を差し出した。さっきから訳が分からないことばかりで、頭がショートしそうだ。混乱状態のままされるがままに受け取って、紙袋の中身を見る。

「……なんすか、これ」

「スパイスです。これでまた美味しい料理を作ってください」

 表情はいつもと変わらず、けれど不思議とウキウキとした口ぶりでそんなことを告げる凪沙。こちらの事情など知らぬ、澄ました表情。そんな姿に、ため込んでいた色々な何かがパンと音を立てて弾けた。その細腕を掴んで家に引きずり込むと、玄関先で力の限りその華奢な身体を抱き締めた。ばたん、と重たい扉が閉まり、お土産にと貰った紙袋がどさりと地面に落下する。香水かシャンプーか、花のような匂いが鼻孔を掠め、冬の風に当てられた身体は、震えるほどに冷たい。

 だが、嫌がることも逃げることもせず、凪沙は抱きしめられたまま、こてんと首を傾げた。

「どうか、したのですか?」

「どうかって──あんた、この二週間、何してたんだよ、連絡も寄越さず──!!」

「連絡──あ、そっか」

 凪沙は『忘れてました』とばかりにそんな声を漏らす。

「実は所用でワシントンに戻っていたのですが、スマホを家に忘れて行ってしまって」

「……は?」

「幸いPCは持って行ったので不便はしなかったのですが……そっか、電話やメッセージアプリはスマホでしか対応できませんからね……失念していました」

 ご心配おかけしました、と彼女はあっけらかんとそんなことを告げるものだから、その場に崩れ落ちるところだった。どうしてこう、この人はこうなのか。二週間も連絡が取れないのだ、心配するに決まっているのに。ちらりと視界の端に映る彼女のお土産は、英語がびっしりと書かれた小袋がいくつも転がり出ている。

「……とりあえず、無事で、よかったです」

「はい、無事です」

 そう言って、彼女はゆっくりと御幸の背に腕を回す。そうしてぎゅっと力強く抱きしめる。まるで御幸の猛る熱を、受け止めるかのように。まるでこの行為が許されているようなその動作に、ドクリと全身が脈打つ。

「……なんで、嘘を吐いたんすか」

「嘘、ですか?」

「アレックスさんは、親友だったって──女性、だって」

「あら」

 顔を上げる凪沙の目を覗き込む。まるで悪戯がバレた子どものように、きゅるりと目を丸くしている。

「成宮ったら、あなたにそんな話を?」

「……いえ、原田さんから」

「迂闊でした。あなたたちに交流があったなんて」

 実際交流があるわけではないのだが、細かく説明する余裕はなかった。腰を抱き寄せて、御幸は険しい表情のまま凪沙を見つめる。

「怒って、いるんですか?」

「べつに」

「顔、こわいですよ」

「そりゃ、嘘吐かれていい気分にはならないでしょ」

「ご尤も」

「なんでそんな嘘を? それとも──嘘じゃ、ない?」

 男が女が、という偏見はない。愛しているのなら、相手が男だろうが女だろうが犬だろうが猫だろうが差はない、と御幸は思う。事実、同性が好きだと言うチームメイトもいる。ただ、世間の目はそこまで寛容でないことも、知っている。宗教上の理由で、海外の方が厳しい目で見られることも、だ。そんな世間の目を誤魔化すための嘘という可能性も、十分にある。

 そんな御幸に、凪沙は力が抜けたように笑った。過去を懐かしむ、あの儚げな微笑みで。

「──お互い、良い虫除けになると思ったんですよ」

 そうして、彼女の凛とした声が過去を物語る。

 凪沙とアレクサンドラ・ターナーはアメリカの大学で出会った。ソフトボールをこよなく愛する二人はすぐさま意気投合し、家賃を抑えるためにルームシェアを始めるほどだった。そんな二人は、恋愛にまるで興味がなかった。仕事に趣味に、生きているだけで幸せだった。だから、言い寄ってくる虫を払いのけるために、酔った勢いでそれなりの金額の婚約指輪を買い、互いに送り合った。『アレックス』は男性の愛称でもあるので疑われず、『凪沙』もまた海外においては女性名詞か男性名詞か判別するのは難しく。そうして二人は永遠の愛ではなく友情を誓った指輪を手に、幸せに生き続けた。不慮な事故が、アレックスを襲うその日まで。

「……じゃあ、婚約者ってのは、嘘?」

「嘘ですよ。本当になれば、それでもよかったけれど」

「好き、だった?」

「恋愛的に好きだったかは──どうでしょうね。何でもよかったんです。恋をしなくとも、セックスをしなくとも、一緒に生きていけるなら、何だって」

「……愛してたんですね、その人を」

「はい。魂の双子とは、まさしく彼女を指し示していました」

 それもまた、彼女たちの『愛』だった。清く、美しい、そして哀しい愛だった。故にこそ、魂の片割れを失った凪沙はその痛みに耐え切れなかった。思い出深いアメリカを、去るほどに。

「──じゃあ、どうしてワシントンに帰ったんです」

 そうだ。そんな彼女との思い出が残るアメリカで暮らすことができないと嘆いたから、凪沙は日本に戻ってきたのだ。わざわざ何時間もかけて地球の反対側に、彼女は一体何をしていたのか。そんな疑問を素直にぶつけると、凪沙はくすりと笑みを深めた。

「全く、誰のせいだと思っているんですか」

 そう言って、白い指先がするりと御幸の頬を撫でた。そうして細められる瞳に、心臓がドクンと大きく高鳴った。だって、その目に秘められている感情は、彼女に惹かれたあの日と、全く同じものだったから。

「まさか、凪沙さん──」

「遅くなってすみません。謹んで、お受けいたします」

 何を、と惚けることさえ出来なかった。そんな言葉が返ってくることも信じられなかったし、亡き人に向けていた愛情を同じように御幸にも注いでいる現状も理解できなかったし、何より御幸のためにアメリカに帰った、という意味も分からない。目を白黒させて言葉も出ない御幸に、彼女は悪戯っぽくクスクス笑う。

「恋愛なんて、人生には不要だと思っていたんですけどね」

「──、」

「笑って、ちゃんと生きろ──他の誰を想い続けても──ふふ、これほど熱烈に口説かれたのは、生まれて初めてです。ときめいちゃいました」

 クスクス笑いながら、そんなことを口にする凪沙。その頬はほんのりとピンク色に染まっていて、嘘偽りないのだと如実に示しているようだった。表情一つ動かさないと思っていた鉄面皮が、実はしっかり心が動いていたなんて、信じられなかった。

「だけど、どうしても引っかかるところがあった。だから、すぐに応えは出せなかったんです」

「引っかかるところ、って?」

「また、アメリカに住むことができるか、分からなかったから」

「……え?」

 話が飛躍したような気がして、目を瞠った。けれど、凪沙は真剣そのものだった。どうして付き合う付き合わないという話が、彼女がアメリカに住む住まないの話になるのか──五秒ほど考えて、ハッと息を呑んだ。


「あなたも行くでしょう? メジャー・リーグへ」


 その目は、まるでそんな未来を信じて疑わない力強い光が灯っていた。じっと覗き込んでいたら、気圧されそうなほどに。確かに、その夢は未だ御幸の心を燻っている。来年獲得するFA権に、迷いがあるのは嘘じゃなかった。けれど、誰よりも彼女がその夢を信じている。そして、その夢に帯同することさえ、考えていたなんて。

 どこまで先を見据えるんだ、と圧倒される御幸。けれど、凪沙はその瞳をそっと伏せてしまう。

「でも──やっぱり、だめでした」

「……向こうは、辛かったですか?」

「はい。見る物全て、聞こえる物全て、食べる物全てに彼女を思い出してしまう。ストリートを歩いているだけで、自然と、涙が、零れるほどに」

 話しながら思い出してしまったのか、凪沙の言葉は徐々に途切れ途切れになっていく。涙に滲んだ声と、潤んだ瞳。それでも笑みを湛えたこの表情が、今はこんなにも悲しく見えて。

「だから──やはり、私は向こうには帰れません」

「……じゃあ、どうするつもりなんですか」

 メジャーに行ったら別れる。まあ、なくはない話だ。遠距離恋愛は総じて上手くいかない。いくら情報化社会とはいえ、物理的な距離は縁の切れ目である。年の半分以上地方に向かう野球選手だからこそ、その困難さは身に染みている。そんな不安を前に、涙で潤んだ瞳をそっと伏せて、おもむろに御幸を見上げる。

「どうもこうもありません。あなたが帰るまで、待ちます」

「……何年かかるかも、分かんねーのに?」

「私には、アレックスがついていますから」

 そう言って、右手に光るアレキサンドライトを見せる凪沙。彼女の愛する親友の名を冠した宝石は、力強い輝きを放っている。

「それに、選手とトレーナーでは体裁が悪いですからね。メジャーから戻る頃には、私も若手トレーナーとは呼べなくなるでしょうし。ホラ、ちょうどいい」

「ちょうどいいって──ったく、ほんと……」

 分かってる。この人には一生敵わない。メジャーに行って帰ってなんて、何年かかるかも分からない。思い続けることも、思われ続けることも、保証されていないというのに、彼女の目に迷いはない。ああ、くそ。決して楽な道ではないはずなのに、凪沙と肩を並べて歩く未来が、どうしてこんなにも輝かしく見えてしまうのか。

 ぎゅ、と再び背中に回された腕に力が入る。胸元に頭を預けるように、凪沙が抱き着いてくる。

「あなたのおかげで、食事が美味しくてもいいのだと、気付きました。誰かと話す楽しさを、思い出しました」

「凪沙、さん」

「笑って生きてもいいのだと、あなたが教えてくれたから」

 責任取ってくださいね。そう言って緩やかに微笑む凪沙に、たまらずぎゅうっと抱きしめる。この笑顔を、取り戻したのか。他でもない、自分が。ささやかで、穏やかな毎日の中で、魂の片割れを喪った傷がほんの少しでも癒えたのだろうか。そうであればいい。そうしていつか、彼女に指輪を贈りたい。とびきり美しく、ひと際輝くアレキサンドライトをあつらえた指輪を。そうして凪沙の愛は生涯生き続けるのだと、御幸一也が共に肯定できるように。



 ──XX年後、メジャーで華々しく活躍した御幸一也は帰国と共に現役引退を発表し、即座に入籍した。海を越えて何年も御幸一也を支え、密かにサポート続けたその女性の右手と左手の薬指には、青緑に輝く宝石が煌めいていたという。



《アレキサンドライト・ロマンス 完結》

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